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美しいものたち

この世界は美しい。美しすぎて、時折辛くなる。私が思う美しさとは変わりゆくものであり、必ず終わりがあるものである。だからその瞬間に切り取り、作品にして分離させることでその状態を保管している。この文章も私から切り取って、今の私を保管している。初めから変わらないものであるなら、わざわざ切り取って保管しておく必要はない。つまり時折辛くなるのは、美しさに共存している変わりゆく切なさや、寂しさや、喪失を同時に感じているからなのかもしれない。

私はそうした感情にずっと蓋をしてきた。変わらないでほしい、終わらないでほしいと願った。だけど維持することにフォーカスを当て出すと変に捻じ曲げたり、押さえつけたりするなど、人はコントロールをし始める。いや、コントロールできると勘違いし始めるが正しいか。そうするとコントロールできないものを排除し、コントロールできなかったものは失敗とみなすことで、全てが自分の想像の枠内へと収まっていく。その世界は2Dのように平坦で、檻の中のように狭く、つまらないものになってしまうだろう。変わりゆくものに逆らう、未来をこうしたいなどのコントロールする行為には、それ以外に起きる現象を否定していくという副作用が伴う。その副作用は、自分の想像の枠内へ収まってくれた場合はいいけれど、収まってくれなかった場合は大きな後悔となる。絵描きになりたかったのに、絵描き以外の才能が発揮されても自分では認められないという副作用だ。それではつまらない世界になってしまうと私は感じる。コントロールしようとするのをやめてからは、世界の見え方が急激に変わった。維持しなければならないものがなくなり、流れみたいなものが視界へ入るようになった途端に、私は世界の中で小さくなっていたのだ。自分がコントロールしているのではなく、自分も流れの中の一部になったからだ。それだけで世界の見え方は180度変わる。

美しさとはそうした予定調和の、コントロールされた下では感じ取れないものではないかと思う。自分が置いている視点が想像の枠内であれば、変革は起きても受け入れられることなく、沈黙のまま通り過ぎて行ってしまうだろう。そうした絶え間なく生まれては消えてを繰り返す美しさの中へ身を投じるには、それなりに手放さなければならないものもある。社会はコントロールしようとするのみで、そんな風にはできていないからだ。皆んなとは違う時間軸の中を生きていかなければ見えないものがあって、そこにしかない美しさは確かにあると感じる。

それらは作品から目的地がなくなった時に、初めて気づけるものなのだろう。目的地は、コンテストで優勝したいとか、デビューしたいとか、たくさん売れてほしいなど人それぞれあるだろう。そこを目指すとどうしても大衆ウケが必要となり、自分の枠内を想像してコントロールしようとしたり、それ以外の結果を認められず、結局よくあるつまらないものへと成り下がってしまう。結果として辿り着いてしまうのはいいけれど、芸術家として初めから目指すべき場所ではない。だから真に評価されている芸術は、どれも理解し難いよく分からないものの方が多い。どこがいいんだろう?と思う人が多くいてこそ、自分だけが見えてしまったものであり、作品として残しておくべきものではないかと私は思う。評価とはその後に勝手について来てしまった、おまけみたいなものだ。

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