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私のレンズで見えているもの

熊本で個展「坂口恭平日記」を見た時、自分も風景画が描けるような気がした。今まで一度も描いたことはないし、描こうと思ったことすらなかったのに、描きたいという願望ではなく、描ける気がするという事実として身体の中から湧き出てきたのを覚えている。それは自分が歩けるのは当たり前でどうやっているのか説明できないみたいに、私は風景画を描けるのは当たり前という設定が突然追加されたような感覚だった。

自宅へ帰ってくると、私は早速ペンを握った。スマホのカメラロールに入っていた写真を見ながら、まずはとにかく描いてみる。この時点では鉛筆で下書きをせずに、いきなりペン入れからやっていた。普段の工程だと、下書き→ペン入れ→色入れの順番で描いている。下書きを省いていたのは、どこまで解像度を上げればいいのか悩んでいたからだ。描けることを描きすぎると、見ている景色そのまんまになる。私が今まで風景画を描かなかった1番の理由はそこで、元ある景色をそのまんま描いて何が楽しいんだろう?だった。ただ模写をするだけなら写真でいい。だから自分のレンズを通してどこまで描くのかが最初のテーマだった。

最初の1枚

とりあえず勢いで描いてみた後に、これは違うなと思った。見た瞬間に誰もが美しいと思う景色を、わざわざ私のレンズに通す必要はない。きっとこの景色は、自分以外にもっと美しく描ける人がいるだろう。私は当たり前すぎて誰も気づいていないけど、自分が美しいと思っているちょっとニッチな景色を探しに行った。写真に撮っては描いて、解像度を調整していく。4、5枚目辺りでいきなりペンから描くのはやめて、わりとしっかり下書きをするようにして解像度を上げる分、ペン入れと色入れで力を抜くようにした。ブレてもいいから勢いで線を引き、大胆に見せたいところは大雑把に色を塗る。こうすることでただの風景画が、私の風景画になる。昔から定規は使わないし、好きじゃない。建築家でもないのに、誰でも簡単に真っ直ぐ線が引けてしまうなんてつまらない。歪みやブレにこそ、その人の個性や想いが生まれると思っている。

下書きするようになった頃
解像度上げすぎた時
この辺かなと落ち着き始めた頃

何枚か描いた頃、周りで不思議なことが起こり始めた。やたら褒めてもらえるし、喜んでもらえる。以前から絵に関しては褒めてもらえることが多かったけれど、今までとはなんだか違う。以前描いていた絵は、頭の中で一生懸命イメージを膨らましながら1週間以上かけて描いていた。だから力を抜いて、2日で描いてしまう風景画にリアクションがあること自体に驚いていた。え、これでいいの?って感じだった。風景画はなぜか描けるから描くといった、自分でも不思議な状態。これを不思議だと感じるのはおそらく、作品の中に私がいないからだと思う。たくさんの人に見てほしいとか、絵描きとして有名になりたいみたいな願望は一切なくて、ただ描ける気がしたから描き始めたという適当な動機に対して、返ってくるリアクションが自分の中で一致していなかった。風景画を描く時、私は限りなく透明になっている。そこに自分はいるようでいなくて、ただこの景色を見てほしい、気づいてほしいという想いだけで、それ以外なにもない。

絵が光っている、キラキラしているとも言われて、見た人が感じているものと、私が感じているものが一致していないことにも驚いた。皆んなには自分のように景色が見えていないことを、そこで初めて知ったのだ。私はキラキラさせようと描いているのではなく、本当にそう見えている。何もない街でしょとか、錆びれた街でしょとよく地元の人に言われるけれど、私のレンズにはこの街の魅力がたくさん映っていて、何で気づかないんだろう?ぐらいの勢いなのだ。だから描かなければと思った。ただ描けるからではなく、私のレンズを通して描かなければと。「伊東」というこの街は本当に美しくて、儚くて、そこに住まう人々の暮らしに私は心底惚れている。それを表現する術を持たせてもらっているならばきっと私はやるべきで、役割な気がしている。なんとなくね。

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