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循環させていく

私の生活は至って平凡だ。朝起きて、コーヒーを飲んで、掃除洗濯をして、制作をして、ご飯を食べて、買い物へ行って、途中で海を見たりして、ご近所さんと話して、またご飯を食べて、夜眠る。昨年の12月にこの街へ引っ越してきてから、これらを繰り返している。そうしているうちに私は、唐突に理解し始めたことがある。「全は個にして、個は全なり、個は弧にあらず」という言葉の意味を。急に難しいことを言い出してどうしちゃったのかと思われるかもしれない(笑)もう気づかれているかもしれないけど、私は哲学が大好きだ。

この言葉は仏教やキリスト教、哲学者などが説いていて、鋼の錬金術師や風の谷のナウシカなど、色んな漫画のセリフとしても少し言い回しを変えて使われている。子供の頃にこの言葉を見た時、全く意味が分からなかった。いや、意味は分かるけど、体感としては分からないと言った感じか。物凄く大雑把に説明すると、私たちは世界の一部で、世界も私たちの一部だから一人ではないよという意味。世界の一部だよ〜と言われても、スケールが壮大すぎて全く実感が湧かない。それは大人になってからもただの言葉の意味として理解しているだけで、本当にそう思えていたわけではなかったと思う。

私は私を中心に世界が回っていた。この世界を認識できるのは自分という存在があるからであって、私はあなたになったり、鳥になったりして世界を見ることはできないから、どうしても世界の中心は自分になってしまう。すると世界は「私&それ以外」という識別になってしまう。だけどそうやって分けていると、私と世界が別々の存在になってしまい、はみ出していると感じたり、どこかを直さないといけないと思ったり、世の中を変えたくなったりして、承認欲求や自己否定が強くなっていく。そうではなく、空から降った雨が海へ落ちて一つになるように、私は海へ落ちる前の一粒の雫に過ぎないのだと、巡り巡る循環の一部だと捉えると、自分や世の中をどうこうしようと思わなくなる。今日はかなり抽象的な話…(笑)

つまり私は、生活の中で循環を感じていた。常に大きな流れに乗っていて、その中でどうやって自然に流れていくかを考えている。突出しようとしたり、争おうとしたりすると、その循環から外れてしまい居心地が悪い。欠乏感や焦燥感みたいな心の揺らぎは、循環から外れているサインなのかもしれない。

私は長らくステージの上へ立ち、自分が突出することで自分が世界の中心となり、アイデンディティを守ろうとしていた。でもその感覚のままステージへ立つのは、いつまでも満たされない何かがあって苦しかったし、終わりのない寂しさがあった。もっとたくさんの人に認められようとしたり、もっと大きなことを成し遂げようとしたりしてその穴を埋めようとしていたけれど、どうやらやり方が間違っていたらしい。

日常生活で色んなものを見て、聞いて、触れて、使って、食べて、作っていくうちに、どんなことも世界のどこからか生まれてきて、やがて消えていき、また生まれてくるを繰り返していて、それは至る所で無数に同時に起きていると知った。そして自分もその無数のうちの一つであり、やがて消えていくのだと。だからすでに私は世界の一部として存在できていると感じた瞬間に、スッと楽になった。なんだ、このままでいいんだって。ステージの上へ立つことに真剣になっていた私にとって、日常生活なんてどうでもよかった。だから世界の循環を感じずに、そこから突出することばかりを意識してしまっていたのだと思う。生活は個になろうとするのではなく、全へ馴染んでいく感じがある。むしろ個になりようがない。生活するためにはありとあらゆるものが必要となり、その力を借りなければならない。借りっぱなしだと何だか悪いから自分も何かを返したくなり、そこで初めて循環が生まれるのだろう。大事なのは流れを止めないこと。受け取ったものを次へと流していくことで循環の一部になれて、自分は存在していてもいいという安心へと繋がっていく。

そうした循環を知った上で立ったこの間のステージは、全く違う世界だった。私は藤森愛の一部であり、観客の一部であり、会場の一部であり、音の一部であり、風や空の一部であり、私は紛れもなく世界の一部だった。そう初めて感じられたステージだった。

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