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脱皮

気のせいだったかもしれないと思うほど、身体から抜けていく苦痛。もうすぐ鬱が終わるらしい。ご飯も作れなくなるほど大変だったのに、この日々の感覚はきっと忘れてしまうのだろう。毎回、真新しく生まれ変わるかのように過去は綺麗さっぱり消去されて、不安なんて微塵も感じず、何事もなかったかのようにまた未来へ向かって走り出していく。私はこれから、この鬱抜けの過程を「脱皮」と呼ぶことにしようと思う。

脱皮とはある種の動物において、自分の体が成長していくにつれ、その外皮がまとまって剥がれることである。

Wikipediaより

脱皮中は自分のことで精一杯になる。これは新しい自分を迎えるためには必要で、とても大事な工程だ。時間をかけて少しずつ脱いでいき、時には上手く脱げなくてグズグズともがき、もしかしたらずっとこのままかもしれないと不安を抱きながらも、古くなった殻を自分から1枚1枚剥がしていく。ツルッと剥けたあとは爽快だ。ゆで卵の殻が綺麗に剥けた程度のものではない。生まれ変わった私の目に入る世界はとても新鮮で、きっと他の皆んなよりも少しだけ美しく、光輝いている。この世界は脱皮した者だけが見られる特権であり、わざわざ観光名所やヒット映画を見なくても、その辺の石ころで感動できるほどの景色なのだ。そしてまた身体が古くなってきた時、脱皮が必要になる。私たち躁鬱人は何度も脱皮を繰り返すことで手に入れることができる莫大なエネルギーや、生きていてよかったと感じられる世界の美しさがある。

生きていることを実感するのはわりと難しい。明日死ぬかもしれないと思いながら今日を生きろと言われても、頭のどこかには一週間後の予定を思い浮かべてしまうし、何十年後かにやって来る寿命もまだ遠すぎていまいち想像できない。でも脱皮は、かなりの至近距離で生死を感じることができる。死がずっと隣に座っていたり、生が一気に身体中へ入り込んできたりする。寿命が近づくと人は生き急ぐらしい。だから生死を身近に感じている私たちは生き急ぐのだろう。脱皮をすることでそれらを何度も経験できるのはとても人間らしく、人間を堪能していると言える。いつか死が訪れることを理解しながら生きている動物は、どうやら人間だけらしい。それは時に耐え難いものであり、恐怖心にも繋がるからなんとか忘れておこうとする。でも脱皮をするたびに呼び醒まされる、そのどうしようもない結末と向き合わされる代わりに、私たちは生きている喜びを感じられるのではないだろうか。

何百回目かの脱皮を終えて、私はまた新しい自分を始める。

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