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小説:私が私になるまえに

私は中学校に入学するのと同じくらいの時期に、ヒップホップを聴き始めた。
とはいえダンスをやっているわけでも、ましてやMCバトルに憧れているわけでもない。
ヒップホップを聴いている、と言いたかっただけだ。
それだけで上級生は私のことを認識してくれた。
髪を染めたりピアスを開けたりはしない。それはママが怒る。
それに、逆にマジメな外見でヒップホップを聴いているほうが、いわゆる「実はヤベーやつ」だと思われるんじゃないかという目論見もあった。
そしてそれは目論見通りに作用した。

イヤホンだと音楽を聴いていると気付いてもらえないことがあるので、私はサイズのでかいヘッドホンを使っていた。
「なに聴いてるの?」と質問されると、あたかもウザいかのようにヘッドホンを外した。
本当は鏡の前でウザそうにヘッドホンを外す練習をしていた。
下校中もヘッドホンをつけていたが、危ないので音楽は聴いていなかった。

玄関を開け「ただいま」と言ったが、ママの「おかえり」という声は、いつもの居間からではなく二階から聞こえた。
自分の部屋のドアを開けると、ママがクローゼットを片付けていた。
「どうしたの?」
「ねーあなたの部屋のスペース貸してくれない?」
「いいよ。どうしたの?」
「庭の物置ね、雨漏りしちゃって」
「私の部屋に物置のもの入れるの?くさそう」
「んーん、物置のものはパパの部屋に行く」
「よかった」
「パパもくさいからね」
「私そこまで言ってない」
「んでパパの部屋のクローゼットの冬服、置かせてほしくて」
「いいよ」
「ねぇこの箱って、あなたのちっちゃい頃のおもちゃよね」
「そうだね」
「あなたまだ遊ぶ?捨てていい?」
「さすがに遊ばないけど、ちょっと中見たい」

半透明の収納ボックスを開けると、そこにはたくさんの懐かしい色が詰まっていた。
どれもうっすらとだけれど、遊んだ記憶がある。
ひとつひとつを手に取ると、さらに精細な感覚が蘇った。
と同時に、捨てるのを惜しむほどのものではないとも感じた。
小さな頃の私の身長から見れば目の前いっぱいの宝箱だったかもしれない。
しかし今の私の視点の高さから見ると、それはピンクや白やクリアブルーのプラスチックのモザイクのように見えた。
捨ててもいい、と言おうとしたとき、箱のすみに見覚えのある絵本が見えた。
私の大好きだった絵本だ。
その絵本を手に取ると、内容よりも先に、あたたかな毛布の感覚が呼び起された。
そうだ、私はいつも、寝る前にこの絵本を読んでもらっていた。
「この絵本はとっておく。あと捨ててもいいかな」
「え、あなたまだ絵本とか読むの?かわいいとこあるじゃない」
「読まないけど、なんか」
「でもしばらくしたら無くすもんよ、そういうのは」
「それでも。今は」
私は首に掛けたままだったヘッドホンを、なぜだか急に投げ捨てたくなった。

その夜私は夢を見た。
大人になった私が、あの絵本を探す夢だった。
絵本は、どれだけ調べても見つからなかった。
その世界ではなぜか、あの絵本ははじめから存在していなかった。
大人になった私は、絵本を探すのを諦めようとしていた。
思い違いだったのかもしれない、空想したことや夢で見たことを絵本の内容だったと思い込んだのかもしれないと。
私はあの絵本を、大人の私に届けてあげたかった。
それができなくても、私は教えてあげたかった。
幻じゃないよ、ここにあるよ。
あなたの大切だったものは本当にここにあるよ。
私は大きな声で叫んだつもりだったけれど、声は砂の粒になって地面に落ちた。
私の声はどうしても、大人になった私には届かなかった。

目が覚めたらきっと、私は大人の私になってしまっているだろうと、私は思った。

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