【Ouka】 3.スノウ・パレード
悲しみとは、喪失に対する反応である。
でも私はなにかを失ったつもりはない。
気付いていないだけなのかもしれない。
あるいは。
カーテンを開ける気もしなかった。
カーテンを開ければおそらく特太ゴシック体で「冬」という文字が空に浮かんでいるだろう。
私は布団の中で方向転換をしてから、カーテンレールにかけてあった制服を引っ張り落とそうとした。
しかし、反動やら振動やら衝撃やらいろいろなものを駆使してもハンガーはカーテンレールから手を離そうとはしなかった。
私は諦めて一瞬だけ布団から飛び出たあと、制服を布団の中に引き込んでもう一度目を閉じた。
モノクロームの景色は私を憂鬱にさせる。
冬に元気なのは犬かナガセくらいなものだ。
私はコートのポケットの中で指の関節を鳴らした。
雪に色があれば少しは虚しさも紛れるのかな、と私は思った。
極彩色の冬を想像しながら、私はマーチンの靴底で雪を踏みしめた。
ナガセは教室のドアを開けた瞬間からアナ雪顔をしていた。
だから私はおはようの前に言わざるを得なかった。
「雪だるまは作らないからね」
「ちょっと、ネタ潰さないで」
「なんで朝からそんなテンション高いんだよ。モンエナでも飲んできたんか」
「よろこび庭駆け回ろ?」
「伏せ」
「やだ!床冷たい!」
「ねぇいいから早くドア閉めて!?」
「あっメンゴメンゴ」
「この時期の暖気はダイヤに匹敵するからな!?」
「ちんしゃちんしゃ」
私にだって、雪にはしゃいで遊んだ記憶くらいはある。
しかし、いつから冬が苦痛でしかなくなってしまったのかについては思い出せない。
大人になるということがあらゆる喜びを虐殺していくことならば、それはあまりにもクソだ。
私は今、おそらくその分水嶺の上でよろめいている。
そして私はナガセの存在に手を伸ばして助けを求めているのだろう。
大人になんてなりたくない、と叫びながら。
箒で床を掃いていると、突然教室に冷たい風が吹き込んだ。
驚いて窓の方を見ると、ナガセが窓枠に積もった雪を集めていた。
「マジで?ちょっと、なに?犬なの?寒いって」
私がナガセをどけて窓を閉めると、ナガセは白目を剥いて窓に手を伸ばした。
「ゆき…ゆき…」
「こわいこわい。こわいから」
「えーだって、楽しくなんないの?」
「いや…べつに…」
「楽しいの感情をなくしちゃったの?ロボなの?」
「冬はなんか、だめなんだよね」
「テンションが?」
「テンションが」
「わかるー」
「うそつけ」
「ほんとだよ」
ナガセは真面目な顔でそう言った。
「冬はね」と、いつだったかお寺の住職が私に話した。
あれは祖母が亡くなったときだと思う。
雪の多い冬だった。
「冬はね、悲しいのが当たり前なんだよ。いろんな生き物が死んじゃうからね」
私は頷いた。
死がどんなものかも曖昧だったうえに、祖母は気が済んだらまた起き上がってくるのではないかとすら思っていたけれど。
「でもね、悲しいのは悪いことじゃないんだよ。悲しいがわかるから嬉しいもわかるんだ。ずーっと嬉しいしかないと、嬉しいってなんだろってわかんなくなっちゃうからね」
私は首を傾げた。
ずっと嬉しいほうがいいに決まってるのにな、と思った。
「悲しいが冬なら嬉しいは春。冬に植物や虫が死んじゃうのも、春に子供たちが生まれてくるように」
「でも人は冬に死なないよ?」と私は言った。
「ながーい目で見れば、人にも冬や春があるんだよ。だからおばあちゃんが亡くなったのは悲しいけど、今は我慢しないでいっぱい悲しんでいいんだ。いや、悲しむべき時間なんだよ。フロイトは悲哀の仕事って言ってたかな」
「でも悲しくないよ?」
「そっか。悲しくないか。それはそれでいい」
そう言って住職は笑った。
あのとき悲しむことができていれば、冬が来るたびにこんなに悲しい気持ちにならずに済んだのかもしれない、と思わなくもない。
校門を出た私の後頭部に柔らかな衝撃が走った。
あまりに懐かしいその痛みに、私は微笑まずにはいられなかった。
振り返ると、ナガセが次の雪玉を作ろうとしゃがみ込んでいた。
「ちょ、待って、まだ次の、待って待って」
そう言ってたじろぐナガセに私は雪玉をぶつけた。
「雪玉ぶつけられたのも投げたのも、いつぶりだろ」
「悪くないでしょ?」
「やっぱ冷たい。やだ」
「じゃあなんでそんなに笑ってんだよ」
「あんたがいるから」
「え、今あたし口説かれてる?もじもじしとこ」
ナガセは「もじ、もじ」と言いながらもじもじした。
「でもほんと、あんたといるとなんかほぐれるわ」
「ほぐれるって言葉なんかおもしろいな」
「うまく言えない」
「インナーチャイルドとなかよくね」
ナガセの口からそんな言葉が出たことに、私は驚いた。
ナガセはにこにこ笑っていた。
帰り道で、私はこれまでないがしろにしてきた感情のことを思った。
雪の上にテンポ正しく並んだたくさんの大人の足跡は、まるでスポイルされた感情のパレードのように見えた。
この人達に春が来ますように、と私は思った。
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