見出し画像

【Ouka】 9.イグナイター

イグナイター3

「目にひじき入ったことあるんだよね」
遠くを見つめながらそう言ったナガセを私は二度見した。
暑さのせいでナガセはもうダメなのかもしれない。
「ひじきみたいなまつ毛…?」
「いや、最高にひじき」
「どうやったら入るのあんなでかいの」
「奇跡…?」
「起こすなそんな奇跡」
「ひじき見るたびに思い出すんだよね、飛んでくるひじき」
「かわいそう」
「ミラクルハプニング集みたいな動画見るたびに、あたしなんてひじき入ったしって思う」
ナガセはそう言いながら首元に制汗スプレーを吹きつけようとしたが、噴出口は違う方向を向いていた。
ディ◯ニーのショーのように目の前に噴射したそれを見ても、ナガセは眉ひとつ動かさなかった。
暑さ、と私は思った。
どこかでセミが鳴いていた。

「あたしはこれ以上夏になったらもう、なんか、アレだからね」と、夏休みが始まる前にナガセは言った。
気温が上がり始めた時にはナガセはすでになんかアレだったが、「わかった」と答えてしまった私もアレだったのかもしれない。
それはなにもわかっていないときのわかっただった。
手元では縮まったストローの紙袋にコーラの水滴を落としていた。
夏にIQが2にならない高校生なんて存在するのだろうか。
少なくとも私たちは違った。
そうして夏休みは始まった。

かろうじてIQが3になった時にだけ、私たちは図書館で宿題をした。
図書館でのナガセは強かった。
必ずカバンから勉強道具と一緒に真顔で異物を出してくる。
ある日、ペンケースの横に剥き出しのタマゴが置かれた。
ナガセはじっとこちらを見ていた。
手に取れということだろうか。
私は恐る恐るタマゴを持ってみた。
これを使ってボケろということだろうか、とタマゴを回してみると、顔が描いてあった。
私は目を閉じて笑うのを堪えた。
心を落ち着けてからタマゴをもう一度見ると、なにかの本で見たことのある顔だということに気がついた。
「あっハンプティダン…」
私は口を閉じたままでうめき声をあげた。
タマゴには、めちゃめちゃブチ切れているハンプティダンプティが描かれてあった。
私の手からタマゴをとったナガセは、それを割って飲んだ。
驚くべきことに、タマゴは生だった。
カバンの中でタマゴが割れるリスクを背負ってまで、なにがナガセをそうさせるのか。
生卵を飲んで涙目で吐きそうになっているナガセを見てついに私は大声で笑ってしまったので、笑いながら図書館を出る支度をした。
これ以上居られるわけがなかった。

「ナガセはなに、図書館が嫌いなの?」
図書館からの帰り道で、私はナガセに聞いてみた。
「嫌いなわけじゃない。なんか苦手なだけ」
「それは嫌いとなにが違うの?」
「なんかさぁ、なんかしなきゃいけないような気持ちになっちゃって」
「なにその悪質な使命感」
「あんたん家で勉強っていうのはダメ?」
「おぅ、えーと、いいよ」
「あれ、なにげにはじめて行く?」
「だね」

ナガセと私は、結局ゴロゴロしたり本を読んだりして夕方を迎えた。
「どうする?泊まる?」と、私は半分冗談で聞いてみた。
「え、いいの?」
「親いないし、ぜんぜんいいよ」
「キャッ」
「キャッて」
「あー、でもあたし…まぁいいか。なんでもない」

「あたしね、寝る前にいつも薬飲んでるんだ」
私のスウェットを着たナガセが、すこし気まずそうに言った。
「それでね、なんていうか、ちょっと意味わかんないこと言っちゃうかもしれなくてさ」
「わかった」
「グズったらごめん」
「いいよ」と私は言った。

「ねぇサクラ」
ナガセは珍しく、私のことを名前で呼んだ。
「あたしすごく弱いんだ」
「ちっちゃい頃から変な子扱いされてて、変人とか、空気読めないとか」
「それで、なんかそういう方面のこと調べて、いろいろ知っていくうちに、今度はまわりから不気味とか気持ち悪いとか言われてさ」
「あたしは今でも世界がこわい」
「こわいから、こわくないふりをしないといけない」
「サクラと仲良くなれて、嬉しくて、最初のころは毎晩泣いてた」
「サクラがあたしのこと好きになってくれたらいいなって、入学式で見たときから思ってた」
「共依存なんて曖昧な言葉、愛し合ったことのない人が考えたんだろうね」
そう言うと、ナガセは微かに寝息を立て始めた。
ナガセを起こさないように、私は静かにナガセの涙を拭った。

その夜私は夢を見た。
ナガセと私と、ひとつのなにかが一緒に暮らしていた。
バランスボールくらいの大きさのそれは、ナガセであり、私であった。
その球体がなにか楽しいことを言って、ナガセと私は楽しそうに笑った。
私はその球体を抱きしめて、透き通る表面に顔を近づけてみた。
その球体の中は、網目状の光で埋め尽くされていた。
網同士の間を時折走る強い光は、せわしなく喜びを運んでいた。

目を覚ますと、隣のナガセはぼんやりと私を見ていた。
私たちはどちらともなく「おはよう」と言った。
その時ふと、昨日まではなかった熱と光が、私の中に存在することに気がついた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?