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【Ouka】 2.ヒット・イン・ザ・夕景

バッティングナナ10

私は「より良い結婚」をするためにテスト勉強をしているわけではない。
「良い奥さん」になるために単位を取っているわけでもないし、「円満な家庭」とやらのために毎日制服を着ているわけでもない。
しかし、私のレゾンデートルを私が決めてはいけないらしい。
「みんなそう言ってる」らしい。

「お前そんなんじゃろくな大人にならないぞ」と教師は私に言った。
クラスの何人かは笑っていたけれど、私はとてつもない違和感を感じた。
「先生、ろくな大人の”ろく”ってどんな意味ですか」と私は聞いてみた。
「あぁー、そういうことじゃなくてな」と教師は言葉を濁した。
「あともうひとつ」と私は続けた。
「先生は”ろくな大人”なんですか?」
教師は教卓を蹴ったあと、無言で私を睨んでいた。

「ねーちょっと聞いてー」と、昼休みに自分の机をガガガと私の机にくっつけながらナガセが言った。
「ぜったい大したことない話っぽいけどいちおう聞くね」
「大してるし!パジャマ捨てられたんだよひどくない?」
「あ、はい」
「ちょっと、サンドイッチ開けないで聞いてよ」
「サンドイッチ捨てられたのか、ひどいね」
「パジャマだよ。サンドイッチから離れろよ」
「なんで捨てられたの?」
「臭かったんだって」
私は思わず笑ってしまった。
「ねぇ笑ってないで。ジェラピケだったんだよひどくない?」
「でも臭かったんでしょ?」
「臭くないし!あたしフローラルだし!嗅いでみ!?」
私はナガセのつむじを嗅いでみた。
「ねぇフレーメン顔しないで!」
「いやまぁ、パジャマなんてそれなりに人間の匂いするもんだよね」
「愛着あったのになー。新しいパジャマ買う金がねぇよ」
「またジェラピケ買うのは大変だね」
「せっかく時間かけて臭くしたのになぁ」
「臭かったんじゃねぇか」
「きらい?」
「すき」

「お前は小さい頃は素直でいい子だった」と、ある日父親が言った。
「今はどうなのだろう」とは、私は思うことすらしなかった。
過去とはどこにあるのだろう。
頭の中にしか存在しないのなら、それは夢や幻となにが違うのだろう。
古びた写真ですら、紙に小さなインクのドットがたくさん染みた集合でしかない。
それはフィクションとなにが違うのだろう。
私はぼんやりと、ナガセとずっと一緒に笑っていられないかなと思った。
しかしそれはおそらく叶わない。
ナガセはいつか誰かの「良い奥さん」になるのだろうから。

帰り道でいろいろなことを考えながら歩いていたら、私は突然歩くのが面倒くさくなってしまった。
私はどこにも行けないのかもしれない。
明るい未来にも、暖かい過去にも。
河川敷の草の上に座りこんでしまうと、いよいよ私の体は重くなった。
うなだれている私の足元に、くたびれたボールが転がってきた。
顔を上げると、少年たちが野球をしていた。
野球とは呼べない人数ではあったけれど、しかしそれはやはり野球だった。
私はボールを拾い上げて投げ返そうと思ったけれど、ふと思いついてボールを持ったまま少年たちのほうへ歩いた。
「ねぇ、あたしも混ぜて」
「え。いいよ」
「やった」
「でもグローブねーじゃん。バッターやる?」
「いいの?」
「いいよ」
私はそれまでバッターをしていた少年からバットを借りて、バッターボックスに立った。
バットを握るのなんて小学生の時以来だったけれど、なぜか打てそうな気がした。
「スリーストライクで交代ね」
「おっけー」
私はぎこちない構えで、ピッチャーのフォームを注視した。
「過去なんて!クソだ!」
叫び声とともに私は空振りをした。
思いがけない言葉が口から出たことに私は驚いていた。
「え、ねーちゃんなに今の。こわ」
「気にしないで。次」
ワンストライク。
私は出来るだけなにも考えずにボールに集中した。
「未来はもっと!クソだ!」
ツーストライク。
またしても空振りだったけれど、私は予感めいたなにかを感じた。
モーションに意識を注ぐタイミングで、言葉が出てくる。
ボールよりも、無心になることに集中していた。
「いつだって!今が!最高!」
くたびれたボールは、魂の叫びと一緒になってオレンジ色の夕焼けに放物線を描いた。
「え、これホームランじゃね?」と私は言った。
「ヒットだよヒット」
「けど守備いないからホームランみたいなもんじゃん!」
「ねーちゃんがホームランって思ったらホームランでいいと思う」
「それいいな」
「でも今のはヒット」
「えー」
私はくやしいふりをした。
嬉しくて泣きそうなのを隠すために。

私が夕暮れの空に放った打球はあいにくホームランにはならなかったけれど、それでよかったのだろうと思う。
なんというか、そのほうが今の自分にはしっくりくる。
それまではヒットどころか、空振りどころか、ボールがどこから飛んできているのかさえわからなかったのだ。
いや、そもそも飛んできているのがボールなのかすらもわからずに震えていた。

今は違う。何と闘えばいいのかを知っている。
私は魂のバットを構えて、未来のほうを睨んだ。

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