【Ouka】 4.ラン・ベイビー・ラン
「なに読んでるの?」とナガセが言った。
「なんか…心象スケッチとかいうの」
「どんなの?」
「わかんない」
「え?」
「さっぱりわからん」
「わかんないのに読んでんの?」
「わかんないから読んでんだけど、わかんない」
「古いやつ?」
「そうだね、ちょうど百年前だって」
「あたしが二歳くらいの頃かぁ」
「ということはあたしが三百歳くらいの頃だね」
どうしようもないボケ方をしてしまった私たちの間に、少しだけ沈黙が流れた。
「昔の言葉だからわかんないんじゃない?」
そう言ってナガセは、なにごともなかったかのように話を戻した。
「あー、それもあるかな…。いや、やっぱり今の言葉にしてもわかんないかも」
「楽しいの?」
「それもわかんない。けどなんだかずーっと語呂がいい」
「ほう」
「ラップみたい」
「心象スケッチするぜメーン」
「エッチスケッチワンタッチメーン」
「えっなにそれ」
「えっ急に素になるのやめて」
私が本を読んでいるとき、なぜかナガセはそばにいる。
わざわざそばに来て、頬杖をついて私のことを眺めていたり、スマホをいじったりしている。
最初の頃は気になった。
早く読み終われと言われているような気がしたから。
けれど、そうではないらしい。
「あ、気にしないで。なんか本読んでる人のそばにいると落ち着くってだけ」と、ある日ナガセは言った。
それ以来、私はナガセがそばに来ても構わずに読書を続けられるようになった。
「なんで春ってこんな眠いの?」と、授業の後で半分キレながらナガセが言った。
「春は寝てるほうが正しいよね。たぶん。生き物的に」
「春眠あかちゅ、あきゃつ、あか」
「ぜんぜんあかつき覚えてなさそう」
「次の授業寝るからねもう」
「次って視聴覚室じゃなかった?」
「マジで?かんぜんに寝れる」
「まくら持ってくればよかった」
「それは笑う」
ナゲットとシェイクの乗ったトレーを持って席に着いてから、私は窓の外を眺めた。
通りを歩く大人たちは、心なしか皆浮かれているように見えた。
あるいはそれは、柔らかい陽射しのせいなのかもしれない。
表情の影までもが柔らかく感じられるせいなのかもしれない。
「おまたせ」と言って、ナガセが向かいの席に着いた。
ナガセのトレーには、ハンバーガーのセットに加えてもうひとつハンバーガーが乗っていた。
「え、晩飯?」
「やだなぁまだ明るいよ」
「いや、量。明るさじゃなくて」
「おやつだよ?」
「冬眠明けなの?」
「春だからね。しょうがないね」
「ぜんぶ春のせいなの?」
「いっぱい食べるキミが?」
「すき」
「よっし」
途中でおなかがいっぱいになったのか、ポテトを無言で私のトレーに乗せながらナガセが言った。
「なんかみんな楽しそうに見えるね」
「それ。あたしも思ってた」
「浮かれやがってよぉ」
「やがってとは思わなかったけど」
「あたしだってモテてぇよぉ」
その言葉を聞いて、なぜか私の心拍数は上がった。
「へぇ、ナガセも人並みにモテたいとか思うんだ」
「だって、春ですぜ?」
「ですぜって」
「あんただってモテたいでしょ」
「あたしはべつに、べつにってか全然そういうのいいなぁ」
「うそだぁ」
「いや、ほんとに」
「あれ、なんか元気ない?」
「え、大丈夫」
「ハンバーガー食べる?」
「おまえマジかよ」
私は結局、ハンバーガーもひとつ食べた。
ナガセに手を振ってから、私は自分の様子が少し変だったことについて考えた。
恋愛や彼氏がどうといった話題があまり好きではないという自覚はあった。
けれど、ナガセがそういった話をしたからといって私が落ち込む必要はまったくないはずだ。
私だって、いつまでもナガセとふたりきりで楽しく生きていけるとは思っていない。
ナガセが幸せな花嫁になる姿は想像できる。
けれど、その隣に誰か知らない男が居るという光景が想像できない。
「できないのではなく、想像することを拒んでいるのではないか」という言葉が浮かんだあたりで、私は考えるのをやめた。
本が読みたいな、と私は思った。
大きな庭のある家の横を歩いていると、道沿いにクリスマスツリーのような木が等間隔に植えられていた。
それらはまるで、うまくいかなかったクリスマスたちの墓標のように見えた。
「ZYPRESSEN 春のいちれつ」と、私は心のなかで呟いた。
三歩で次の植木がくるように、植木の間隔に合わせて私は歩いてみた。
その時ふと、歩いていたら未来に間に合わないのではないか、と思った。
次第に私の歩調は早くなった。
次の木にたどり着くまでの足取りは三歩から二歩になり、それはやがて一歩になった。
気がつくと、私は全力で走っていた。
走ったって未来が早く訪れるわけじゃない、とは思えなかった。
じっと未来を待つよりも、ほんの少しだけ早く未来に行けそうな気がした。
光の速さに近づけば、苦しみも短くて済む。
私は誰にも見られていないことを願いながら走った。
どうして自分が泣いているのかわからなかった。
その未来にナガセがいたらいいな、と私は思った。
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