小説:虹

虹を追うのをやめたのは、何歳くらいのときだっけ。
先生め、余計なことを教えやがって。
理科の授業で現実を突きつけられなかったら、いつか本当に虹を捕まえられたんじゃないかと、今でもぼんやり思う。
あれから僕は、どんな希望も情動も信じなくなってしまった。
だからバイト先の女の子のことも、別に好きなわけじゃないんだろうな。

大学だけは出ろと言っていた親も、大学を出てしまえば、僕に対する関心を失ってしまったようだった。
進学は勉強すればできるけれど、就職は本人の意思が伴わないと難しい。
「大学出たのに、どうしてフリーターやってるの?」と聞かれたときは、犬の鳴きまねをすることにしていた。
それで大抵の人は、変人だと思ってそれ以上なにも聞いてこなくなった。

バイトが休みの日は、公園のベンチで缶コーヒーを飲みながら煙草を吸って、ただ漫然と空を眺めた。おもしろいわけではない。空以外のものを眺めていると周りの人が警戒するからだ。
日が暮れるとアパートに帰る途中でコンビニ弁当を買って、眠る前に少しだけウイスキーを飲んだ。

バイト先のファミレスの事務所で、同僚の女の子が話しかけてきた。
「昨日公園にいたの、見ましたよ」
僕は犬の鳴きまねをしたくなったが、我慢した。
「あぁ、公園にいました。ヒマだったんで」
「ですよね。めっちゃヒマそうでしたもん」
そう言って彼女は笑った。僕もとりあえず笑った。笑うってこうやるんだっけか、と確認しながら。

その日、同僚の女の子が客に絡まれた。その男は平日の昼間に泥酔していた。
僕はなんとなく、対応を女の子から引き継いで、男に謝罪した。
「なんだてめえ、バイトのくせしてかっこつけやがって。あの女とヤってんだろどうせ。かっこつけてんじゃねえよ。かっこつけやがって。たかがバイト野郎が」
「今日のところはお代はけっこうですので、どうかお引き取りください。大変申し訳ございませんでした」
なにがあったか知らないのに申し訳ないというのは、具体的な謝罪を求められたらまずいな、と思いながらも、僕が謝り続けると男は帰っていった。
バックヤードに行くと、女の子は泣いていた。
「ありがとうございました。なにあのクソオヤジ。めっちゃムカつくんだけど」
「めったにいないけど、たまにいます、ああいうお客。気にしないでください」

それから数日後、いつものように公園で空を眺めていると、いつのまにか男がそばに立っていた。やはり泥酔していた。
「おめえこないだのバイト野郎だな。覚えてるぞ」
僕はなにも言わずに、男の顔を見つめた。
「なんか言えよこのやろう。気持ちわりいやつだな。おめえみたいなバイト野郎なんてなぁ、社会のゴミなんだよ。ちゃんと税金納めてんのか?おめえみたいなやつがいるから日本がだめになんだよ。こないだのバカ女だって社会のゴミなんだよ」
気が付くと、僕は男ののどぼとけを握っていた。男はなにが起こったのかわからない様子だったが、一瞬驚いた顔をしてから、僕の手を振り払って逃げた。
僕はまたベンチに腰掛けて、コーヒーをひと口飲んだ。

少し時間が経ってから、僕はなんだか違和感を感じた。最初はその変化がなんなのかわからなかった。怪我もしていない。体調もいい。
そうか、僕はひどく怒っている。そして彼女のことがとても好きだ。
僕は笑いがこらえられなかった。
空を見上げると、そこにとても強い虹があった。
公園にいた少年が虹に気付き、「虹だ!」と叫んで走りだした。
僕はその光景を見ながら、涙をこらえて呟いた。
「走れ少年。走り続けろ。君はいつか光を超える」
僕は明日、彼女に告白することにした。

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