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【Ouka】 5.在りし日の歌

在りし日の歌

泣いて大人になりたくない。
喪失を歌いたくなんてない。
追憶に浸りたくなんてない。
しんみりなんてしたくない。
だからといって、なにをどうすればいいのかはわからない。

「はい授業はじめるよー」と言いながらナガセが教室に入ってきた。
私は授業が始まるのを待ってみた。
「はいじゃあ今日はねー…えーと…教科書の…止めて?」
「何ページですか?」
「っておいおーいとか」
「先生?」
「なんでやねーんとかで終わるやつだったんだけど」
「なんの教科書ですか?」
「恋の教科書」
笑ってしまったので私が負けた。
「はぁ、おはよう」
「おはよう。笑ったから昼休みジュースね」
「なんだよ恋の教科書って…Jポップかよ…」
「ニューシングルみがあるね」

ここ数日、午前中の間にナガセの仕掛けてきたネタで笑ったら昼休みにジュースを奢らなければならないという、ナガセだけが得をする地獄の競技が繰り広げられている。
明らかなネタには耐性があるけれど、ふとした拍子にナガセが発する単語に弱い。
私の財布には、日増しに小銭が増えていった。

とはいえ、ナガセはナガセなりに私のことを心配しているようだった。
私は普段通りにしているつもりだったのだけれど、ナガセが言うには時々スイッチが切れたように無表情になっているらしい。
「本の読みすぎなんじゃない?」とナガセは言った。

そう言われてみると、たしかに思い当たる節がないわけでもない。
本を読んでから作者のことを調べてみると、誰も彼もが暗い喪失を経験している。
もちろん、世界中の本を書く人全員がそんな経験をしているわけではないはずだ。
私がたまたまそんな本を引き当ててしまっているのかもしれない。
あるいは、私のなにか暗い部分が引き寄せてしまっているのかもしれない。
それらの積み重ねに、私はあまりよくない影響を受けてしまっているのかもしれない。
そんな様子にナガセは気付いて、私を笑わせようとしているのかもしれない。

「普通でいてくれればいいから」と、ある日父親が私に言った。
まるで、努力をサボって落ちる場所が「普通」であるかのような言い方だった。
そして、まるで自分自身が「普通」であるかのような言い方だった。
その時私の中に強烈に湧きあがった感情が怒りなのか嫌悪なのかはわからなかったけれど、何も言わずに距離を置くというのが最適解だということだけはわかった。
リビングから自室に戻った私は、天井を見つめながら小さな声で「普通なんてクソくらえ」と呟いた。

私が黒いもやもやのことを思い出していると、
「じゃあ、また明日ね」とナガセが言った。
ナガセとは、短い距離しか通学路が一緒ではない。
帰り道というのがあまり好きではない私は、いつもうまく笑えない。
だから私は今日も下手くそな笑顔でナガセに手を振った。
その時ふと、この手はナガセに振るためにあるのだろうか、と思った。
違う。
私の手はナガセに触れるためにある。

泣いて大人になりたくない。
喪失を歌いたくなんてない。
追憶に浸りたくなんてない。
私はナガセと一緒に歌いたい。
在りし日の歌になんかしてやんない。

私は別れたばかりのナガセを追いかけた。
ひょこひょこ歩いていたナガセは、走ってきた私に気付くと逃げた。
思ってたのと違う。
「待って!ちが、違う!なんで逃げんの!」
「お金ないです!あたしじゃないです!向こうに逃げました!」
「待ってって!てかなに言ってんの!?」
「こえぇって!なんか映画で観た!襲われるやつじゃん!」
「襲わないから!…たぶん」
「ほらぁーやっぱりだ!」
「ほんとに待って!ナガセ!」
ナガセは徐々に速度を落とし、私たちはやっと走るのをやめた。
「なに…どうしたの…」
「ちょっと…話したいこと…待って、しゃべれない…」

私とナガセは、公園のベンチに腰掛けた。
私が停学になった夜にふたりで話したベンチだった。
「逃げるからなんか話すタイミングわかんなくなっちゃったじゃん」
「追われたら逃げるんだなぁ。人間だもの」
「走ったらのど渇いた」
「よし、今日はあたしが買ってきてあげよう」
そう言ってナガセは、自動販売機に向かった。

ナガセの買ってきたミルクティを飲みながら、私は恐る恐る声を出してみた。
「あたしさ」
「うん」
「最近ちょっと変だったよね」
「うん」
「なんかもやもやしてて」
「うん」
「けどなんか、晴れた」
「ほう」
「あたしさ」
「うん」
「ナガセのこと好きでもいい?」
「お?」
「Likeじゃないやつで」
「おお?」
「ごめん、意味わかんないよね」
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
「ついに言ったな、と思って」
私は両手で顔を覆った。
ナガセは、少し考えたあとで言った。
「ひとつ、関係性に名前をつけない。ふたつ、変わらずにいることを強制しない。みっつ、人前で手を握らない」
「じゃあ今は?」
「なに?」
「手」
「いいよ」

桜が咲いていた。
青い空を背にした桜は、その花のひとつひとつが命を讃えて歌っているようだった。
「天気いいね」と私は言った。

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