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半べそを褒める


久しぶりに体を動かした。
軽い運動だったが。
サッカーに夢中だった頃を思い出した。

小学生だった頃の暑い日。
父がサッカー好きだった。
サッカーチームに入れられた。
動機はどうあれ、楽しさを感じ始めていた。

合同チームで試合することがあり、
違うメンバーの試合にワクワクした。
しかし、自分のミスで失点。
試合に負けた。
試合が終わった後、
監督から「お前のミスで負けたんだぞ、悔しくないのか!」と言われた。
ポタポタと涙を流し、わーと泣いた。
泣きべそをかいた。
スポーツで初めて泣いた瞬間。

「今さら泣いたって遅いんだよ」と監督が言ったのを覚えている。
冷たい言葉かもしれないが、悔しさをバネにしてほしい。
そう願う大人の気持ちだろう。
チームメイトからも「泣いてるの初めて見たよ」と言われた。
悔しさを味わった健気な子ども。

けれど、今思い返すとその時に学んだのは、
「雰囲気に飲まれて泣く」こともある、だった。
真剣に向き合う大人。
周りからの注目。
失敗した自分。
予定調和が揃った。

悔しかったのは確かだが、
心から悔しいと思っていなかった。
「負け」という悲劇を生んだ自分に酔っていたかもしれない。
泣く方が正しい、と心のどこかで思っていた。
つくった涙であることは、どうしても拭えなかった。


演出が揃った泣きべそではなく、生の半べその記憶がある。
中学1年生の登校時、いきなりの腹痛。
ダメだと思った。トイレに行きたい。
途中に公園やトイレなど無い田舎道。
家だってぽつぽつとしかない。
学校まではあと20分ほど。
どう頑張っても学校まで持たない。
野に放つ、、、いや、ティッシュはない。
トイレを借りよう。
意を決して「お腹が痛くて・・トイレ貸してください!」と
近くのお宅を駆け込んだ。
大人が慌てていた。
すぐトイレを貸してくれた。
必死に、半べそかいた。

雰囲気の悔し泣きと、この大便の半べそ。
泣きべそは、過去へ向かい、
半べそは、未来に向かっていると思う。

泣きべそには、諦めた自分がいて、
半べそには、諦めていない自分がいる。

過去と一緒に今に留まる、泣きべそ。
未来のために今を何とかする、半べそ。

半べそは前向きだ。
しかも、半べそ状態にはなりたくないから、貴重な瞬間でもある。


そう考えていたら、半べそが愛らしい。
転んでも涙を堪える子どものようでもある。
半べその瞬間が来たら、大事に記憶しよう。
そんな余裕はないだろうけど。