見出し画像

余談『姉を偲ぶ』

姉が亡くなりました

母親からLINE。
姉が、2時50分、亡くなりました。

5月1日に呼吸が荒くなり、病院に運ばれてそのまま亡くなったとのこと。

姉は癌でした。
既に抗がん剤治療も放射線も効果がなく、医者からも「今日かも知れないし半年後かもしれない」と診断されていた状態でした。

神経芽細胞腫という小児ガンの一種で、白血病についで発症例の多い癌です。
遺伝などとは無関係の癌であり、なぜできるのかがまだわかっていないそうです。
姉の場合はそれが成人してから発症。
成人であるために、治療法も確立されておらず、腫瘍摘出と抗がん剤治療などで初期は対応。
その数年後、転移が見つかり、これも摘出と抗がん剤。
こうした治療を二十年近く続けてきました。

最初の手術の前日に面会したときは、ベッドの上で
「もう戻ってこられないかもしれない」
と母と一緒に泣いていた姿を見ていました。
あの頃はまだ息子ふたりも成人しておらず、遺していくことをかなり気にしていたようでした。

術後は生還できた喜びからか、
「自分よりも若い見習いのお医者さんたちに囲まれて手術するの見られてたんだ」とか
「肺をめりってめくって背骨のあたりの癌を取ったんだ」
と笑い話として自分の癌を語っていました。

その後は、癌と付き合いながら時を過ごし、息子ふたりも成人し、結婚。
孫もできたことでどこか安心したようでした。

また元気なときは、友達などと一緒にB'zのLIVEで全国を飛び回っていたようで、東京で一人暮らしをしていた自分のところに「泊めてくれると朝から並べるんだけど」と電話してくるくらい。
(狭いから無理と断りましたが)

とにかく明るい姉でした。

そんな姉が三度目の手術をして暫くした後に、親兄弟などを連れて、鬼怒川の温泉に一泊旅行をしたことがありました。
自分がちょっと仕事でまとまったお金が入ったこともあり、あまり親兄弟と交流することが稀だったので、記念にと思い企画したものでした。
姉は術後であることを親が心配するからと言わず、まだ体力に問題があるのに参加してくれたのです。
歩くのもしんどいのに、笑顔を見せる人でした。

その明るさのために友達も多かったようです。

旦那さんの転勤でいくつかの場所で住んでいたのですが、その度に友達が増え、更にはB'zファンの繋がりで年の離れた友達ができたりと、周りに人のいる印象があります。
これは学生時代も一緒で、自分が中学のときにバスケ部に入ったのですが、姉もバスケ部に在籍していたためか
「あー、藤咲先輩の弟」となぜか女子部の先輩が優しかった思い出があります。
姉からもらった学生カバンがなぜかぺっちゃんこだったので初日から上級生に睨まれたときも、藤咲の名前のお陰で許されたこともありました。
そして自分が中学のとき、姉は働き始めていて、自分と弟にお小遣いをくれていたのです。

高卒の新人OLですからそれほど給料が高いわけでもないのに、弟ふたりにお小遣いをくれる姉。
それだけでも頭が下がります。
更には自分の結婚式のときに、
「お前たち、着る服ないだろうし学ランで来られるのはやだから買ってあげる」
と、結婚式で着るジャケットとスラックス、シャツとネクタイをセットで弟と二人で買ってもらいました。

そんな姉と一緒に過ごしたのは17年間でした。
自分が17歳のときに結婚して家を出たのです。

姉が失恋してベッドに突っ伏して寝ている姿を見たことがありました。

姉が高校3年のときに免許を取り、初めて買った車がストロベリーレッドの中古のトヨタ・セリカ1600STリフトバックだったことや、次に乗り換えたのが四代目カローラだったことなどもよく覚えています。
試乗につきあわされたのが自分だったので。

姉が嫁入り修行のために料理教室に通い始め、はじめて家族に振る舞ったフランス料理に誰も箸が進まず気落ちしていたこともありました。

山口百恵が好きで、同じコート、同じサングラスを買ったと自慢していたことも覚えています。

ジャイアンツが好きで、特に当時の山本功児が好きで、月刊ジャイアンツを購入していたお陰でそれを自分も読んでいたことで、ジャイアンツっていいのかなと思っていたこともありました。
野球はしませんが観るのが好きだったのはその影響かもしれません。

少女漫画もフレンド、コミック、マーガレットと買っていたため、それを借りて読んでいたことが今の自分の作品作りの根底にあると思います。

小説も、星新一、赤川次郎、ディクスン・カー、安部公房と姉がおもしろいよと言ったものは自分もそのまま読んでいました。

とにかく僕への姉からの影響は大きなものがあります。


姉との約束

先月、姉に会いに水戸に行ってきました。
既にベッドで寝たきりで、トイレには意地で自力で行ってると行っていたので、動けなくなるまで自分でいっていたかもしれません。

会いに行ったときは、かなり無理していたのかもしれません。

実は姉とはずっとLINEで、
「自分より遺される親が心配だから気にかけてやって」
とか
「もう思い残すことはなくて、孫が成人まで見たいとか言ったらそれって欲じゃん?」
とか
「見送ってもらうならUltra Soulかなぁ……。そして輝くUltra Soul!」
「ハイ!」
みたいなやりとりをしていました。

「治るから大丈夫」とか「がんばればいける」とか一切言いませんでした。

治らないことはわかってる。

既に余命三年と言われてから二十年生きてきたから、ここからは運。それでもやれることはやる――といい、自分も調べて提案はしてみたりしたけれど、最新の治療法であっても類例の好きない希少癌には適応できないと返信があったときはなにも言えませんでした。

弟は末っ子のためか、すごい泣き虫です。

だから愚痴は自分に言うと姉は言っていました。
それでも愚痴はほとんど言ってくることはなく、自分が決めたことを確かめるようにLINEしてくるだけでした。

生きていた証をなんとか遺したいなぁとも言っていたので
「そのうちこの珍しい病気のこと、自分が作品で扱うわ」
と言った時に
「ありがとう」
と言われたので、自分にできることをできたらなと思います。

神経芽細胞腫

姉がなるまで知りませんでした。

子供のうちであればほぼ治るようです。
小児がんの中で発見される症例の中でも100万人の子供の中に100人から200人ほどの率でしか見つからないものであり、それが大人で発症するのはほぼ皆無。
現在は小児の場合はマススクリーニングにより改善されているようですが成人に至ってはデータはほぼありません。

そのため、姉は自分の体を解剖献体に出したいと主治医に申し出ていました。
最後を病院で迎えるために、これしか方法がないと主治医と相談して決めていました。
主治医の先生も長い付き合いの中、姉のためにがんばってくれたと思います。

自分ができることは、姉との約束として、こうした文章という形で「神経芽細胞腫」というものが成人でも発症し得ることを残すことです。

この文章が目に止まり、こうした癌があるのだなと知っていただければと思います。


――以上、姉に頼まれていたメッセージをここに遺します。


追記:
2023年5月7日。
納棺された姉に会ってきました。
きれいに化粧され、眠っているかのような自然な顔立ちでした。
大好きだったB'zの写真などに囲まれ、義兄に聞けば、足元までびっしり入っているらしいと。
長男、次男の嫁ふたりがどの写真を使うかなど、見極め、背前、うちの奥さんと撮った写真を加工して遺影にしていました。

「お疲れ様」

それだけを言って帰ってきました。

献体の件は遺体の状況からなくなり、普通の葬儀にする流れとなったようです。
姉は明日荼毘に付す形となりますが、遺言として、遺骨の一部を実家などに散骨するようです。

やっぱり寂しかったんだな。

これで姉は思い出の中だけに生きる人となりました。
自分も5月が巡る度、思い出してあげられたらと思います。

サポートしていただけることで自信に繋がります。自分の経験を通じて皆様のお力になれればと思います。