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新しい朝がきた

(地域情報誌フジマニ 2010年4月号 vol.47 掲載の編集長コラムから転載)

hopeness morning

「この国には何でもある。だが、希望だけがない」(『希望の国のエクソダス』村上龍)

こんなフレーズをかつて読んだのは、もう10年も前だっただろうか。そのときは青二才の分際で「確かにな!」なーんてわかったふりをしていたけど、本当にそうだろうか? この国に希望はないのだろうか? 確かに毎日、報道には失策政治と不況のことが書き立てられ、さらには環境の悪化、異常気象、人災、戦争、病気…そんな情報があまりに氾濫し、まるで明日には世界が終わるような気になる。でも、変わらず明日はやってくるしお腹も空くしトイレにも行くのだ。10年後、自分がまるで違う生活をしている想像をしている人間なんて、多分ほとんどいないんじゃないか? 芥川龍之介が「ただぼんやりとした不安」で命を断ったが、この「ただぼんやりとした不安=厭世観」がくせ者だ。厭世観とは悲観主義とも言い換えられる。とみに日本ではこういった厭世観がはびこりがちだが、今日の日本ではまるでそぐわない観点とも思う。暴力や貧困や戦争や差別や火によって脅かされる人がいることを知っている俺たちが、毎日ベッドで眠り、腹一杯に食べ、政治の悪口や自分の主義主張を唱えながら、知ったふうな顔をして「この世をクソッタレだ」なんて言うのはまるで薄っぺらに思うのだ。もしも本当にクソッタレなんだとしたら、それはこの世がじゃなくて自分の人生がクソッタレなのだ。そして人はみんな、そのクソッタレな人生をちょっとでもクソッタレじゃなくするために生きているんだろう? 4月になり、草が芽吹き徐々に気温もあたたかくなり始めた。桜前線が北上し、各地ではお花見が催されています。…なーんてニュースが流れる国は、世界のどこを探しても日本だけ。その国で生まれ、暮らしている。とてつもなく幸せじゃないか! 例えば今日が人生の最後の一日だとして、自分の運命をはかなんで泣き暮れても、好きなことをしても、同じ24時間だとしたら誰もが後者を選ぶだろう。社会や、政治や、他者に左右されない、自分自身がやりたいこと。愛する人と会う。伝えるべきことを伝える。他人を許す。楽しみに妥協はしない。仕事はきっちりやる。天気を気にしない。好きなひとに思いを告げる。人生の最後の一日にならできることを、今日どれだけできるかどうか。そんな当たり前で単純なことがきっと本質であり「希望」の一つなんだと思うんだ。

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