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コロナ禍が地域社会に残した思わぬ傷跡―秩父市での聞き取り調査の記録から―

わが地域振興研究会の「民俗文化研究班」が、秩父を舞台に講や民間信仰について調べるということで、旧吉田町域を中心に聞き取り調査を行ってきた。本当は「念仏講」をはじめとする講の実態について調べる予定であったが、話を聞くうちに軽視できない現実が見えてきたので、備忘録としてここに書き留めておきたい。
調査の中でいくつかの集落を回ったが、ほとんどの地域に共通していたのは、「地域で守られてきたコミュニティがコロナ禍によって少なからぬ変化を迫られている」という点である。筆者の私見が大いに含まれることをご承知の上、読者の皆様にもぜひ考えていただきたい。

① コロナ禍が伝統にとどめを刺した(女部田地区)

女部田(おなぶた)は、秩父市街よりバスで50分ほどの場所にある山間の集落である。女部田には、広い範囲から信仰を集めた虚空蔵堂があって、今でも念仏講(住民が一堂に会して念仏を唱える民俗行事)が行われているということで、現地に足を運び、住民の方に話を聞いてみた。

女部田の虚空蔵堂

果たして、確かに念仏講は行われて「いた」。地区の女性が10人ほど集まって、秋の彼岸に念仏を唱えていたという。しかし、江戸時代以来の伝統をもち、市の無形民俗文化財にも指定されたこの念仏講も、コロナ禍によって3年連続の中止を余儀なくされていた
世界的な災禍ゆえ、中止そのものは別に驚くべきことではない。しかし、気がかりなのは今後のことである。思い切って聞いてみると、古老は苦笑しながらこのように答えた。

女部田には20数軒の家があるが、夫婦とも残っている家は少なく、妻か夫に先立たれるなどして、大半の住民が一人暮らしをしている。80歳を過ぎると体力的に一気にきつくなってくるので、最近は行政区長に立候補してくれる人もおらず、集落の運営さえ苦労している
住民は皆年齢的に限界で、コロナ禍が終わったら講がどうなるかは分からない。今後については皆で相談しなければならないが、恐らく続けられないのではないか

コロナ禍以前の女部田では、念仏講の他にも、虚空蔵堂の縁日(1月13日)や、山から下ろしてきた神社の御神体を夜通し拝む「お日待ち」など、さまざまな伝統行事がどうにか続けられていた。特にお日待ちについては、住民が皆高齢化で足腰が悪くなり、山に入るのも一苦労だったという。

県道沿いにも空き家が目立つ

養蚕が廃れ、木材にもほとんど価値がなくなると、若い世代は次々に集落を去った。このようにして、既に限界を迎えつつあった地域のコミュニティに、コロナ禍という未曽有の災害が「とどめを刺した」のである。
もちろん、女部田の宗教行事たちは、これをもって廃されると決まったわけではない。しかし、ただでさえ苦しい状況だった伝統行事に突然生じた空白が、その存続すら危ぶまれるほど甚大な影響を与えたことは、紛うことなき事実のように思われた。

② 浮き彫りになる伝統の「非合理性」(小坂下地区)

もともと地域のコミュニティが希薄になりつつあった集落では、仮に年齢的な限界を迎えなくとも、コロナ禍による影響を少なからず受けている。
吉田地区の南端、赤平川という河川がつくった段丘の上に、小坂下という集落がある。ここには、市の無形民俗文化財にも指定された「天道念仏」が存在していた。

明るく空の広い小坂下の耕地

話を聞いてみると、この念仏講は10年ほど前に絶えてしまったという。若い世代が講に参加しなくなり、信仰集団そのものが自然消滅してしまったからだ。一方、地域社会で長年続いてきた冠婚葬祭のスタイルも、コロナ禍で変化を迎えつつある

以前は神社での祭礼の後、誰かの家に移動して皆で酒などを飲んでいた(=お日待ち)が、コロナで中止している。この辺りでは酒の交じる集まりも多かったが、コロナで殆どなくなった
また、以前は集落で葬式が出ると、防災行政無線で参列者を集めていた家もあったが、コロナ禍でめっきり聞かなくなった。感染対策で地域の人が集まれなくなり、斎場などで少人数での葬式・火葬をする家が増えた

コロナ禍は今も続いており、これらの慣習が今後どう変化するのかは分からない。しかし確実なのは、コロナ禍で人と会うことが困難になったことで、隣近所に頼らない個人主義的なライフスタイルが選択肢として有力になりつつあり、(少なくとも表面上は)それで生活が成り立ってしまっている点だ。

地区の神社。神事は今も大切に行われている。

アフター・コロナの時代において、こうした慣習が絶える地域が各地で出てくることは想像に難くない。気がかりなのは、(もちろん小坂下が現状そういった状況にあるわけではないが)コロナ禍をきっかけとした伝統の断絶によって、「再開の選択肢を住民自らが棄却した」ことになり、言い換えれば「受け継がれてきた伝統は敢えて守るほどの魅力がなかった」という事実が、白日の下に晒されてしまうことだ。

もちろんこれは必ずしも嘆くべきことではないし、まして私のように都市に住む人間が、これを公然と批判するのは筋違いだ。ただ、こうした「伝統」や「地域の繋がり」といったものを、『地域の強み』としていたずらに持て囃すのは、今後の地域社会においてはいささか無理があるのではないかと思う。

小坂下にて。絵に描いたような農村の風景。

合理性を追い求めた地域に明るい未来はないだろうし、「地域振興」がそういった類の活動でもないのは言うまでもないことだが、なればこそ、「地域の何を未来に残すのか」ということの定義を、今一度熟考する必要に迫られているのではないかと感じた。

③ コロナ禍を乗り越えた地域の力(大日堂地区)

既に念仏講が多くの地区で途絶する中、コロナ禍による逆風にも耐え、講をもう一度復活させようとしている集落もある。旧吉田町の中心にほど近い、大日堂という小さな集落だ。その名の通り、背後の小高くなったところに大日堂が祀られていて、1月の第4日曜と春分の日に念仏講が行われている。

大日堂地区の大日堂。まさに集落のシンボル的存在だ

大日堂の念仏講は、コロナ禍で2年間の中止を経験したものの、今年1月より短縮開催という形で再開されたそうだ。壁には燈明料を奉納者した方々の芳名が並んでいたが、個人のほかに地元の建設業者からの寄附もあり、3万円程度の収益にはなっているようである。
実はこの念仏講は、もともと女性のための講だったものが、形を変えて維持されてきた経緯がある。

以前、講員は女性中心だった。嫁にきた女性たちが愚痴をいい合って、日頃舅姑から受けたストレスを晴らす意味もあったのだろう。しかし、女性の後継ぎがいない家が増えたことから、「1軒から1人講員を出す」という取り決めを作ったところ、現在では参加者のほとんどを男性が占めるようになっている
集落の全世帯、計10軒が講に入っているので、講費として1軒あたり年*千円を徴収し、全部で*万円の収入がある。これに加えて燈明料や賽銭も入るので、積み立てて堂の修繕費などに充てている

他の地域が講員の減少に悩まされる中、全世帯が講に加入している大日堂地区。人口は10世帯と比較的小規模であるが、目的や形を変えてでも念仏講が維持されてきた歴史があり、地域社会の結束もそれだけ強固なものだったのである。
大日堂には、旧町域で最も格の高い「椋神社」も位置しており、他の地区と比べて宗教的な意識が高い集落だ、と考えることもできるかもしれない。「コロナを契機に講が絶えようとしている地区もあるそうですが…」と切り出すと、住民の方は「うちの地区は大丈夫だ」と断言されていた。

大日堂の裏手から集落を見下ろす

以上3つの集落は、直線距離で10kmも離れておらずこれほどまでに明暗が分かれていたのは驚きだった。地域のコミュニティが強く生きていた地域では、コロナ禍という未曽有の災害に直面しても、無事にその伝統を守り切ることができたのである。

コロナ禍は「きっかけ」に過ぎない

2019年に始まったコロナ禍は、地域社会がもつ現状を克明に浮き彫りにした。これまでの考察をまとめると、

  1. コミュニティの維持が既に限界を迎えつつあった地域では、受け継がれた伝統にコロナ禍がとどめを刺しつつある

  2. コミュニティの結束が薄れつつあった地域では、コロナ禍をきっかけに合理化が進み、伝統的な生活が変わろうとしている

  3. コミュニティの力が強く余裕のあった地域では、コロナ禍を経験してもなお、将来性のある形で伝統が残っている

といった具合になるだろう。
コロナ禍を経て地域の姿に変化が現れている事例は多かろうが、重要なのは「コロナ禍は一つのきっかけに過ぎず、根本的な原因は他に存在した」という点である。

開放的な農村の風景。取方地区にて

念仏講関連の文献を漁ってみると、「太平洋戦争時に規模が縮小され、以後そのまま定着した」という話もよく目にする。地域の伝統は、戦争や災害といった大きな事件が起こると、それをきっかけに大きく変貌を遂げるものであり、その原則はいつの時代においても変わらないのであろう。

山を隔てて秩父のシンボル・武甲山を望む

いま、これまで顕在化していなかった地域の問題が、コロナ禍によって表面に上がってきている。これを好機とみて、コロナ禍による地域社会の変化を捉えることは、今後の地域振興を考える上で大きな意義のあることだろう。
明らかになった課題と現状を整理しつつ、守るべきところは守り、改めるべきところは改めることで、地域の明るい姿を後世に残していければ嬉しいものである。

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