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天才を殺す凡人を読みまして


こんにちは。ふじきむです。
ふと気づけばもう2月。カレンダーが1枚終わってしまいどことなく悲しい気持ちになっております(noteを更新していなかった気持ちも含む)。


というわけで久々のnote。少しずつでも書き続けていきます。

今回は読書感想文です。
読んだのは『天才を殺す凡人』です。


『天才を殺す凡人』面白いですよね。もう何回も読みましたし数人に布教しました。

(通常とは違う特別装丁版らしいです!
       綺麗なデザインなので是非。)


数度目に読んで、前から沸々と思っていたことが少し言葉にできたのでこのnoteに表します。
(※ネタバレ防止の観点もあるので、本書の内容は省略します。すみません。)

3つの軸と軸内での程度

今回読んで感じた事はこのテーマです。

本書では、人は性質上3種類に大別され、それぞれ天才(創造性)・秀才(再現性・論理性)・凡人(共感性)である(括弧内はその性質の軸)というものでした。

その中で、例えば同じ天才同士でも、その創造性の程度には差がある場合もあるのではないかと感じました。

例として、数値15の弱小「天才」と、数値15,000の超「天才」がいるという感じです。

そして、この各々の数字の総体が現状の性質であり、
創造:再現:共感=10:10:80 →凡人(共感性)

となるのかなと思いました。


本書の分類では、単純に判断軸が異なるために性質が異なるという見方もできます(なので組織の中でバグが起こりますという話でもあります)。

しかし個人の才能という見方ではその数値を上げることで、よりその才能を伸ばすことができ、より「天才」としての結果を出すことができるという見方もできます。


才能の数値は変わりうる

人が生きて何かを学び、経験していく中で、創造、再現、共感の要素が気づかないところで数値が上がっていき、各々の才能が伸びていくのでしょう。

また数値の上がり方によっては、段々と凡人から天才 のように軸が変わっていったり、創造性と再現性の半々などになったりすることもあるでしょう。

 R25の記事にもあったように、天才も性質がそう現れているだけで、天才になるには努力を要するというものでした。


外側から見ると、違って見える場合も

もうひとつ気づいた視点として、
才能の数値が高い人は、違う性質が光って見える可能性もあるのではないかと思いました。

例えば、創造:再現:共感=65:35:25の天才軸の方がいたとして、

現状の業務に創造性を発揮する機会がなく、再現性・論理性ばかりが要する部署にいたとします。

そうするとその人は、再現性ばかり目立ち、秀才に捉えられるなんてありそうだなと思いました。

そこでその人が不満に思い創造性を発揮する仕事を探す(異動・副業など)か、満足し秀才をより伸ばすよう行動するかは自由でいいと思いますが、
本来自分が最も得意とする領域ではないと自覚することは意味があるとは思っています。自分の得意領域ですので。


まぁとはいっても以前別のnoteで書いたように他人の評価と自分の感覚は一致しないことの方が多いと思ってますので、なにより自分と向き合うことが大切ではないのでしょうか。


自分の人生ですしね。

本日はここまでです。
よかったら是非この『天才を殺す凡人』を読んでみてください。今回の才能論だけでなく、組織としての観点からも考えさせられます。


ありがとうございました。

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