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大津市の「真野」の地名の由来について  【後編】(過去ブログからの転載記事。保存用)

▮「3」景観 由来説

 大津市北部の「真野」の地名由来について。
 最後の仮説は、【「3」景観 由来説】です。真野市民センター敷地内に、「真野」の地名の意味について碑文が立っています。

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真野とは美しい「野」という意味で、丘陵が琵琶湖に迫った地形が、この付近で大きく開け、琵琶湖にのぞむ景勝の地であるところから、地名となったと考えられます。奈良時代から平安時代にかけて滋賀郡におかれた四郷の一つに真野郷が見られ、「真野の入江」は歌枕に数えられています。


 前記事に書きましたように、「真野」の「真」という文字は、原野や一面の野原という意味でつけられたものではないようです。碑文にあるように「美しい」という意味で「真」が使われているかはその通りだと思います。(その土地を良いとして称えるワード「真」から考えると)

 国道477号線の新宿橋(しんしゅくはし)上にはモニュメントがありますが、その隣にあるプレートには、「真野という地名は、美しい景色と豊かな土地を意味している」とあります。

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「野」は名前の通り、平坦な土地を指すものと考えられ、この「真野」という地域は古来(少なくとも古墳時代以降)から人が住むに適し、真野神田遺跡などの痕跡や和珥部氏などが住んだことを見ると、農耕も漁業も活発な地域だったと考えられます。
 また古来、和歌では「真野」が多く取り上げられ、「真野の入江」は歌枕になるなど、景勝地でもあったようです。

 ●色かはる比良の高嶺の雲を見れば初雪降りぬ真野の萱原
 ●近江路や真野の浜べに駒とめて比良の高嶺の花を見るかな
 ●鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮れ
 ●浜風に尾花が露はたまらねど真野の入江に月は澄みけり
 ●真野の浦を漕ぎ出でて見れば楽浪や比良の高嶺に月かたぶきぬ
 ●桜咲く比良の山風海吹けば花もて寄する真野の浦波
 ●明け方に真野の浦さび降る雪や比良の高嶺に出づる月かも
 ●真野の浦の入江の波に秋暮れてあはれさびしき風の音かな

 「真野の入江」、「真野の浦」から、「比良の高嶺」や「波(浪)」や湿地帯の萱原(ヨシ原)などを見て読んでいる歌が多く、その光景は物思いに耽ることができる静かな場所だったのに違いありません。

 現在、真野の「沢」に、「真野の入江跡」があります。

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(真野の入江顕彰碑。都定氏や西上富造氏らによって設置。文は横山幸一郎氏、書は真嶋氏)


 これも以前紹介した大津市制100周年の際に真野学区自治連合会が作成した記念誌に、「真野の入江」に関する検証が記載されています。

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 奈良、平安時代(前期)の「真野の入江」は、現在の真野・沢にある標識地ではなく、現在の真野・東浦や今堅田、堅田内湖のあたりが入江状になっていて、「真野の浦」を形成していたのではないかという考えです。

▮ 「真野」の地名由来に関する私の説

 「真野の入江」が、果たして堅田内湖を中心に真野東浦や今堅田にあったのかという問いに対する私の見解です。結論から言えば、やはり古代から中世にかけては、やはり現在の堅田内湖を中心とする地域に「真野の入江」があったのではないかと私は考えます。

 国土地理院のホームページで自分で標高ごと(1メートル単位)で色分けして表示できるようになっており、ためしに自分で図を作成してみました。

真野の入江-1

 琵琶湖がどこまで迫っていたかを考える際に、図上部にある赤抜きの白丸印で示した場所にあったと考えられる「神田神社」、図最下部にある白抜き紫丸印で示した場所に現在ある本福寺に注目したいと思います。

 神田神社は、第5代孝昭大王の皇子「天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)」と「彦國葺命(ひこくにふくのみこと)」と、天照大神の弟「須佐之男命(すさのおのみこと)」を祀っています。
 かつては「小字 下川原」にあったとされており、神田神社境内には、「真野の入江の汀(なぎさ)、神田(みとしろ)の地に神殿を建ててお祀りしたのが始まりで地名により神田神社と申し上げます。」とあり、滋賀県神社庁HPにも、「(和珥臣鳥 務大肆忍勝の)裔孫達が嵯峨天皇弘仁二年真野の入江の渚に近いカンタの地に遠祖を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。」とあり、ほぼ確実にかつての神田神社は、琵琶湖に面した波打ち際(汀:なぎさ)にあったと考える事ができます。

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(元神田神社があったと考えられる下川原から撮った比良山系。雪が比良の高嶺に積もっている)

 
 「小字 下川原」は、上図の赤抜き白丸印周辺で、現在はレークパレス大津堅田というマンションが建っている辺りではないかと思います。真野地域の「小字」がどのあたりに在ったのかを調べようとしましたが図書館などにはなく、労力もかかりそうなのでやめました。時間があればまた調べようと思います。

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(真野川に架かっている「下川原橋」は、小字 下川原から)

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(レークパレス大津堅田は、字 下川原で占用許可を受けている)

 また、真野の元神田神社(創建810年)や、今堅田にある伊豆神田神社(伝860年創建)、本堅田にある伊豆神社(892年創建)や満月寺浮見堂(995年頃)の存在を考えると、急激な干潟・田地開発や、びわ湖の急激な水位低下の可能性は否定できませんが、やはり堅田内湖あたりを中心としたエリアが「真野の入江」だったのではないかと考えられます。
 おそらく飛鳥・奈良・平安時代前期には、滋賀四郷のうち「真野郷」が、現在の堅田と真野及び和邇、小野を合わせた一帯のことを指し、(まだ堅田という名称が一般的でなかったことから)現在の堅田学区に位置している入江のことを、「真野の入江」と呼んだのだと推定できます。

 ●有明の月の光に舟出せむ雲吹きはらへ真野の浜風
 ●つららゐる真野の入江に漕ぐ舟の跡をとめつつかづく鳰鳥

 図上部の白抜き赤丸印の地点には、現在「真野の入江跡」の標識が立っています。「真野の入江跡」標識地点は、本福寺や伊豆神田神社の存在を考慮した琵琶湖水位(標高86m)から、かなり離れた場所にありますが、緑色の等高線(86m以下)と黄色の等高線(87m以上)の標高差は1メートル程度であることを考慮すると、琵琶湖の水位が高くなった時はきっとこの一帯にも小さな入り江ができた可能性があると思われます。
 もしくは、(地質調査等をすればすぐに分かると思うのですが)真野川南流が廃川となってからも、北流(現在の真野川)は残ってきたことから、国道477号線より北側は、土砂が南側よりも堆積して、自然と標高が上った可能性も考えられます。もしそうだとしたら、「真野の入江」は「真野の入江跡」や下川原にあったとされる「元神田神社」辺りまで含んだ、かなり大きな入江を形成していたのかもしれません。

 比良山系と琵琶湖に挟まれた非常に美しい景色は、今も昔も変わらないように思います。美称としての「真」がつけられた、景勝地の平野が広がっていたに違いありません。
 そう考えると、室町期(1500年前後)に近江八景の一つに数えられた「堅田落雁(かたたのらくがん)」も、「真野の入江」あたりの風景だったと言えます。
 以上のことから、「真野」という地名は、主に地域の景観に由来していると私は考えています。

▮もう一歩踏み込んで考える・・

 さらにもう一つだけ考えておきたい事柄があります。
 それは神田神社(真野普門にある上の神田神社の方)は、滋賀県神社庁HPによると、「明細書によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると持統天皇4年に彦国葺命12世の裔孫和邇部臣鳥務大肆忍勝等に真野臣の姓を授けられた。同年9月居館の傍にある浄地普門山を宮居と定めて素盞鳴命を鎮祭して間野大明神と奉斎せられた。」とあります。

 真野の入江近くに建っていた「(下の)神田神社」と、真野普門にある「(上の)神田神社」の関係については以前記事に書いたことがありました(あらためて追筆記事を改めて書こうと考えています)が、私が気になっているのは、祭神として(上の)神田神社に新たに祀った素盞鳴命を、「真野大明神」ではなく「間野大明神」と言っていることです。

 ここからは完全に私の推測になってしまうのですが、もともとは此の地の古名は「間野」だったのではないかと考えています。それが美称である「真」に置き換えられて「真野」となった可能性もあると考えています。和邇部臣鳥らは、此の地を治めるにあたり、古名であった「間野」を用い、素盞鳴命(すさのおのみこと)をもって畏くも土着神もしくは産土神として祀ったのではないかと勝手に思う訳です。
 ※

 真野は肥沃な「デルタ地帯」であると、これまでも紹介してきましたが、「デルタ地帯」とは三角州のことで、2本以上の河川が山から海・湖に流れ込んでできる砂地です。現在、真野川は1本だけですが、かつては現在の真野川より北方を流れていた河川と、もう一本、堅田出島あたりに流れ込んでいた河川、そして天神川によって堅田、真野の平野部が形成されました。
 堅田が開けたのは平安後期から室町時代と考えており、それまでは堅田は湖部分または湿地帯だと考えられています。

 びわ湖大橋が開通した翌年の昭和40年(西暦1965年)に真野小学校教師の横山幸一郎先生が生徒と一緒に発行した「むらのきろくー真野の歴史ー」には、このことが書かれています。少し長いですが転載させて頂きます。

◯真野川の歴史
 地図をみておどろくことは、びわ湖のつき出たところが二カ所ありながら、他方に川がないことです。つまり中村の東にふつう浜先きと呼ばれている地には、真野浜があり真野川が流れています。川がデルタ地帯をつくるという土地造成の基本に従っています。さて出島(でけじま)といわれている今堅田も湖につき出ていますが川がありません。自然に突き出して地形ができたーという考え方は納得できません。そのはずです。出島の方にも川があったのです。真野の古文書の類は元亀、天正のころの戦乱で焼失していますので、古地図などは残っておりませんが、堅田にある古地図には、はっきりと真野川が描かれています。それによりますと、比良山の南端、伊香立の山手から端を発した真野川が中村に至って二つに分かれ北流して真野浜を造り、南流して今堅田を造っていたのです。そういえば今も今堅田の部落には廃川と思われる河川が部落を横切っています。ちょうど日本一の琵琶湖大橋はその中間の所に建設されている訳です。これも東に対する野洲川が北と南の二流を有していることからも考証されます。この真野川と野洲川が西と東から山手の土砂を運び、日本一の琵琶湖を両方からせばめ、つまりびわ湖最狭の地を形成しているのです。また近江盆地の野洲川デルタ、真野デルタをつくり、江州米とよばれる良質の米を選出しているのであります。<中略>大和時代から奈良時代になると南流、即ち堅田へ流れる川が大手筋で水量も豊かで堅田の土地を造っていく。川の周辺の自然堤防に人が住みつき生活するようになる。堅田は地名の通り、湿田が干潟になり良田、堅い田になっていく、その希いが地名になったのであるが、また堅田の先祖は真野から移住によっている。堅田の古文書に「マノノ漁師、カタタに居そめて漁をし渡しもりをする。」というのがあると聞かされている。このことをよく証明している。さて北流の方は平安時代までは、沢・北村辺であの有名な真野の入江は、沢と北村の中間であるからである。北流が浜の辺りに伸びてくるのは中世、鎌倉、室町、安土、桃山時代で現在の浜の部落が出来たのは江戸時代からである。とすると、いつごろから南流が廃川になるのであろうか。それは江戸時代からで南流の川の周辺を開発し、田畑にしたそうである。江戸時代以降には南流の川が地図の上で消失し、逆に田畑が増加していることによっています。明治・大正時代は北流の真野川が盛んに洪水を起し村人を困らせる。そのために流れの方向を昭和になって変え、中村地区を通過させないで、まっすぐ現在のように流す。その先端に水泳場ができ、びわ湖大橋がかかっているのである。

 以上、真野川の歴史を取り上げてきました。
 再び、「真野」の地名の由来です。私は、「景観」が地名に関係しているのは確実だと考えますが、ベースになっているのは「地形」ではないかと思う訳です。つまり「地形+景観 由来説」です。

 北国海道(鎌倉幕府ができるまでの、倭京(飛鳥)や平城京、平安京の人が、日本海側に抜けるための幹線道路。西近江路とも。)において希少な平野部であった真野一帯は、真野川の北・南の二流によって形成された三角州でありました。この三角州(川と川の「間」)にできた平野部を、「間野」と呼んだのかもしれません。

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◇藤井 哲也(ふじい・てつや)
株式会社パブリックX 代表取締役/SOCIALX.inc ボードメンバー
1978年10月生まれ、滋賀県大津市出身の43歳。2003年に雇用労政問題に取り組むべく会社設立。職業訓練校運営、人事組織コンサルティングや官公庁の就労支援事業の受託等に取り組む。2011年に政治行政領域に活動の幅を広げ、地方議員として地方の産業・労働政策の企画立案などに取り組む。東京での政策ロビイング活動や地方自治体の政策立案コンサルティングを経て、2020年に京都で第二創業。京都大学公共政策大学院修了(MPP)。日本労務学会所属。議会マニフェスト大賞グランプリ受賞。グッドデザイン賞受賞。

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