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滋賀県大津市真野の「2つの神田神社」(2) ※過去ブログ記事から転載(保存用)

大津市北部の真野にある「神田神社」についての過去ブログからの転載記事の2つ目です。

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以前、「大津市真野について(4)~2つの神田神社~」という記事を書きました。この記事に追記する形で記事を書きたいと思います。

 真野には2つの「神田神社」があります。一般的に「普門の神田神社(又は、上の神田神社)」と呼ばれる社と、「神田神社(又は、下の神田神社)」です。前記事で「下の神田神社」のかつての立地場所が、琵琶湖の波打ち際の下河原と呼ばれる地にあったということを書きました。そのことから、まずは「下の神田神社」について書きたいと思います。

 何回か紹介させて頂いている「むらのきろく」では、下の神田神社に関して次のように述べられています。

〇神田神社
 嵯峨天皇弘仁二年(811年)に藤の木に鎮座し、祭神は真野の彦土神 彦国葺命である。現真野家の先祖に当る。神田神社は古くは、ミトシロのカミのヤシロとよび、伊勢内宮の御供田に属していた。延喜式神名帳に近江国滋賀郡八座の中に神田神社の名が記され、住吉真野臣の先祖を祭神とするとある。真野臣は天足彦国押人命の孫、彦国葺命の子孫である。その系統の大矢田宿祢が神功皇后の三韓征伐に従って新羅に渡り征伐後その地に残り鎮守将軍となる。新羅王猶榻の女と結婚して二人の男をもうけ、兄を佐久命、弟を武義命という。持統天皇より真野臣の姓をうける。古事記、日本書紀にも同様の記載がある。隣郷に小野族がいたがともに大和の春日臣の系統である。この真野は墾田を意味している。神田の社記は前記の通りであるが、真野氏の中の長者が神主をしておりこの仲間をモトロ仲間という。奈良時代は興福寺関係で後宇多天皇弘安二年(注:1279年)に鎌倉将軍惟康親王の寄進で別当神宮寺と護摩堂を創立し、天台宗となる。伏見天皇永仁年間に神司真野氏は近江守護 佐々木六角に属し神殿を改修し、神田を寄進。織田信長の延暦寺焼討のとき焼失する。明暦2年(1656年)新しい社殿を造営する。

〇十七夜 サンヤレ祭
 一月十七日の夜あるから十七夜。またそのときサンヤレ(幸あれ)とさけぶからサンヤレ祭。両方いう。昔は“こうさい”祭といっている。もとは沢の真野一族の行っていた行事であったが明治維新後は沢、北村、中村の組全体の行事となってきた。この行事は中、沢、北村の男子が一本ずつ松明を点じて神社に参拝する行事である。藤の木から現在の地へ神田神社を移転したときの模様を再現しているのである。各組の男子は藤の木に集合する。集合の順序は沢が先頭で中村、北村がこれに続く。全部そろったとき「サンヤレ、サンヤレ」とおどるのである。この夜は特に寒さが厳しくあるが、行事に従う若者は負けていない。もともと神田神社の神、彦国葺命は荒行を好まれる神で勇ましいことを喜ばれる。万灯のように松明をかざして行列は続く。昔はもっと盛大であったらしいが、いまは静かな行列になっている。この松明の火は夏やせに効くというので火にあたる人が多い。

〇神宮寺の鐘
 正応三年(注:1290年)矢田部宗次と銘のある古鐘は神田神社の神宮寺の鐘である。室町時代の戦国の世、真野氏は佐々木六角に属し戦った。この鐘は対岸兵主の兵主神社に一時納められていた。明治になって浜出身の三宮式部長がとり戻され、いま浜の正源寺にある。

「むらのきおく」

下の神田神社が創建されたのは811年ということです。時代背景を考えると、壬申の乱から140年近く経っており、平安遷都から17年。平城太政天皇が弟の嵯峨天皇に対して平城京への遷都を指示し嵯峨天皇がこれを拒否したから発した変事(薬子の変とも)が810年に起きた翌年です。815年に嵯峨天皇が命じて古代氏族名鑑「新撰姓氏録」を編纂する直前です。

 今年は維新150年の節目の年ですが、西郷隆盛はどのような人物であったのか諸説あったりするなど不正確です。自分自身の150年前の先祖がどのような人だったかを知っている人はあまりいないのではないでしょうか。私自身のことでいえば墓石に「金吹屋」という屋号が彫ってあり、そのことから江戸時代は灰吹きにより金を鋳造していた家系ということが分かるだけです。
 西暦800年頃、寿命も今とは比べ物にならないくらい短く、壬申の乱後、何世代も経っている状況では、すでに自分自身の出自も曖昧になりつつあったのではないかとも思います。嵯峨天皇が古代氏族(古代豪族に対する改賜姓も含めて)のルーツを明らかにして、平安の世を築くための材料にしたかったのかもしれません。同じく、真野臣自身もアイデンティティ、ルーツを明らかにしようと改めて「彦国葺命」を祭神として、真野の入江に接した自身の領地「ミトシロ(神田)」の地に、神社を建てたのかもしれません。
 私が気になったのは、「神田神社は古くは、ミトシロのカミのヤシロとよび、伊勢内宮の御供田に属していた。」という部分です。確かに伊勢神宮は当時においても最高権威といえる神社格と言えますが、伊勢内宮に供えた神田に神社を建てたことに、天皇家との結びつきを明確にしたいという想いを感じ取る事ができます。
 確かに「上の神田神社」がある元々の真野臣の発祥地である普門山と、現在の「下の神田神社」、そして元々あったと考えられる下河原の「下の神田神社」を直線で結び、その直接をまっすぐと伸ばせば、(偶然にも?)伊勢内宮にあたります。


また、「下の神田神社」が毎年1月17日に行っている、「サンヤレ祭」は、非常に荘厳な雰囲気の中で行われます。私もほぼ毎年、見に行くようにしています。

神田神社は、延喜式神名帳(927年に完成)で近江国滋賀郡(現在の瀬田地域を除く大津市の大部分)に記載された8神社のうちの1つで、当時からかなり格式が高かったと言えます。景勝地の真野入江近くにあり、日本海方面に向かう人は必ず神田神社を見ながら歩いたということから立地的に知名度も高かったのかもしれません。

 ちなみに滋賀郡にあった8座は、「那波加神社(苗鹿)」、「倭神社(坂本又は滋賀里)」、「石坐神社(西の庄)」、「神田神社(真野)」、「小野神社二座(天皇神社、小野神社、小野道風神社のうち2社)」、「日吉大社(坂本)」、「小椋神社(仰木)」です。

 下の神田神社境内にある「神宮寺」のことも書きたいのですが、また機会があればとしたいと思います。

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次は「上の神田神社」です。
 上の神田神社(普門の神田神社)についても以前記事で書いた内容で大凡のことは述べていますが、同敷地に建つ光明寺のことや、真野普門のことも含めて若干の追記をしたいと思います。
 
 まずは「むらのきろく」からの転載です。

〇上の神田神社
 真野の地区に二つの神田神社がありますので、普門の神田神社を上の神田神社といい沢にあるのを下の神田神社とよんでいます。上の神田神社は、旧国宝で現在は重要建造物という重文に指定されています。再建されたのは建徳元年でそれが今も残っています。本殿は室町風の流れ造りで簡にして要、なかなか立派なものです。祭神は_(空白)_、天足彦国押人命、彦国葺命の三柱です。口伝によると、承平二年、932年、平将門が“うんじゃく”姫の病気快ゆを祈り、翌年、娘の姫の病気がなおり、そのお礼として承平三年、本殿を建立とあります。平将門が乱を起こしますのが天慶二年。将門の乱に際し、伊香立竜華関を閉じるという正史の記事があるとのことで、普門のこの地から竜華まで通じています。平将門の一門の関係者がこの地にいたため、何の関係もない関所を閉めたのだと推測できます。ちなみに竜華の関は近江の古関三関の一つでもありました。

〇こんぴら祭
 毎年四月十日にこんぴら祭があります。この日には普門全部がこの山に登り祝います。こんぴら山は普門の守護山として昔から崇められているためでありましょう。昭和三十九年の四月十日は、豪恕大僧正がこんぴら大明神を開いてから百五十年になるので、社を新しく建て直して盛大に行事が行われました。

〇六体地蔵
 普門には地蔵さんが大変多いです。昔、寺が多かったせいでしょうか。地蔵信仰というのは平安時代から盛んになっていくと聞きましたが、村の大事なところ、大切な道にあります。こんぴら山に通じる道に六体地蔵尊が安置してあります。この地蔵は村を災いから救うとして、今も花や菓子を供え手をあわしています。

「むらのきおく」

気になったのは、神田神社の祭神で「_(空白)_」があることです。本来ここには、「鳥務大肆忍勝」が入るはずです。※ちなみに単なるミスだと思いますが、「天足彦国押人命」は上の神田神社の祭神には含まれておらず、下の神田神社の祭神です。上の神田神社の祭神は「素盞鳴命(スサノオノミコト)」です。
 私自身も2015年に記事を書いた時には誤解していたのですが、「鳥務大肆忍勝」は一人の人物ではなく、「鳥さん」と「忍勝さん」の二人なのです。この「むらのきろく」を編集した横山幸一郎先生はもちろんこの事は御存知だったと思うので、敢えて「_(空白)_」で祭神の名前を書かないように生徒に指導したのではないかと考えられます。

 また、現在私たちが「曼荼羅山」と呼んでいる山のことを地元の方は「こんぴら山」と呼んでいます。これは山頂近くに境外摂社「金刀比羅宮」があるからで、江戸時代の水不足の際に水の神様であった金毘羅大権現を勧請を受けて造られたと思われます。
 ちなみに、真野臣を与えられた鳥さん、務大肆忍勝さんは、普門山に「素盞鳴命」を間野大明神として鎮座したとされています。この「普門山」は現在の、「上の神田神社」があった場所だと比定され、「曼荼羅山(こんぴら山)」とは別です。別ではありますが、かねてから真野普門の方は先祖代々、曼荼羅山を崇めていたことが分かります。現在も曼荼羅山は真野普門の水利組合が保有されている山となっています。


 また、この「上の神田神社」の隣接地に、「普門山光明寺」というお寺が建っています。
 そもそも、織田信長の比叡山焼き討ちの際、比叡山三千坊も全て焼き払いましたが(聖衆来迎寺など一部例外あり)、「下の神田神社」を含め、真野地域一帯のお寺や神社もほとんどが焼失しました。
 そうした中、例外と言えるのが、この「上の神田神社」ではないかと思います。1370年に再建された「上の神田神社」は、現在も健在で国の重要文化財に指定もされています。織田信長の焼討ちから難を逃れています。なぜ、「上の神田神社」は焼討ち対象にならなかった、もしくは焼討ちはされなかったのでしょうか?

 そのカギを今から2年半前の2016年4月17日に約20年ぶりに行われた「普門山光明寺十一面観音菩薩中開帳」(法要導師:前阪良憲住職)に参加者に配られた縁起に見る事ができます。

「縁起」を見ると、普門山光明寺に安置されているのは、聖徳太子が厄除け諸難消滅のために彫刻した十一面観世音菩薩で、もともとは比叡山横川谷にあったものが、信長の比叡山焼討ちの際に、兵火の難に遭いそうになったところ、此の地に降臨して光明赫赫と立ったということです。そのことから此の地に草庵を造成し、普門山慈眼院光明寺と名付けたということです。

 つまり、比叡山焼討ちの後に光明寺が建立されており、焼討ち時には、此の場所には「上の神田神社」しかなかったのではないでしょうか。光明寺の創建は1572年とされています。その以前に平将門が建てたのは神社の本殿の方であり、お寺ではなかったのは大凡推測できます。
 そのため、神仏習合が進められてきた中でも土神として崇められていた間野大明神しか祀っていなかったと考えられる「上の神田神社」は難を逃れたと思われます。
 
 なぜ「下の神田神社」から、「上の神田神社」が、文亀年中(1501~1503年)、祭典の旧例に反し論争止まず氏子の分離にいたったのかは分かりませんが、これは以前、記事で書いたように、私としては清和源氏系佐々木一族が近江国での地盤を固めていく過程で、古代豪族を同化吸収しようとした動きと関連があると考えています。
 私は真野臣発祥の地である「普門山」に、「下の神田神社」では祀っていない、初代真野臣の「和邇部臣鳥」と「務大肆忍勝」を敢えて祭神として祀ったのには意味があると考えています。

 それにしても、普門山光明寺の十一面観世音菩薩が、本当に聖徳太子が彫刻したものであるならば、これもまた重要文化財級のものではないかと思います。

フジイテツヤ
(2018/11/20及び2018/11/21投稿記事)

上の神田神社(普門神田神社 宮池に映る暁光)
(上の神田神社 普門神田神社から望む近江富士)

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◇プロフィール

藤井哲也(ふじい・てつや)
株式会社パブリックX 代表取締役/株式会社ソーシャル・エックス 共同創業者

1978年10月生まれ。京都大学公共政策大学院修了(MPP)
2003年に人材ビジネス会社を創業。2011年にルールメイキングの必要性を感じて政治家へ転身(2019年まで)。2020年に第二創業。官民協働による価値創造に取り組む。現在、経済産業省事業のプロジェクト統括も兼務。
議会マニフェスト大賞グランプリ、グッドデザイン賞受賞。著書いくつか。
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