見出し画像

「日本一の酒どころ」を生んだ大水車群

 「揖保乃糸」で知られる日本一の素麺産地、兵庫県たつの市を訪れたら、現在の阪神地区にあたる灘目(なだめ)の素麺への出稼ぎで技術をまなんだときいた。当時の灘目素麺は、素麺の元祖とされる奈良の三輪素麺とならぶブランドで、京都・大阪のみならず海外にも輸出され、1900年のパリ万博でも表彰された。だが、「弟子」にあたる揖保乃糸に負けて日露戦争後(1904)に衰退した。
 灘目が素麺の大産地になった背景には「水車」があったという。

素麺と酒をささえた水車と石臼

 灘目とは、東は西宮市の武庫川から西は神戸市の旧生田川まで約24キロの地域の総称だ。
 北側に屏風のようにそびえる六甲山から瀬戸内海に急流がながれこみ、それらの川沿いに多くの水車がつくられた。
 水車の力で、六甲山でとれる花崗岩(御影石)の石臼をうごかして小麦をひき、素麺の材料である小麦粉を効率よく生産できた。
 水車は酒造りにも不可欠だった。従来の精米は、足で踏んで杵をうごかしたが、水の力で杵を上下にうごかす水車精米が導入されて、精白度の高い酒米を大量に入手できるようになった。それによって江戸への「下り酒」の産地として台頭し、古くから酒の産地だった伊丹・池田を抜いて、灘五郷(西宮から神戸市灘区)が「日本一の酒どころ」になった。
 明かりに欠かせない菜種の油搾りにも水車は活用され、有数の菜種油産地でもあった。
 当時の主要産業である酒や素麺、製油をささえた水車は今どうなっているのだろう?
 疑問に思っていたら、住吉川の水車跡をめぐるツアーにさそわれた。

山奥の大工業団地

水車を設置した「滝壺」と石臼

 住吉川は六甲山から瀬戸内海にながれこむ約8キロの急流だ。
 その両岸には17世紀はじめ(江戸中期)から水車小屋がたちはじめ、大正時代には、住吉村誌にしるされているだけで88軒がならんだ。

水車の「滝壺」跡。上の斜面の上から水をおとした
この槽にためた水を下の水車に木樋でおとした


 阪急御影駅から北へ2キロ、六甲山のふもとの標高200メートルの谷沿いには雑木におおわれた水車小屋の「管理棟」がのこっている。残念ながらなかにははいれない。

滝壺の水が排出される穴
穴のなかをすすむと……
滝壺のなかにでる

 そのちょっと上の平場にのぼると、石積みの壁でかこまれた幅1メートル超、深さ3メートル、長さ10メートル弱の溝がある。水車を設置した「滝壺」だ。山側から木樋で水を落とし、直径約6メートル(3間=5.4メートルという説も)の水車をまわしたという。

城の石垣のよう

 谷側には城郭のような石垣が築かれ、水車のある平場から約2メートル下に穴があいている。「滝壺」におちた水がここから排出され、さらに下の水車にみちびかれる。

あちこちにころがる石臼

 標高差8~9メートルのぼるごとに、「滝壺」をともなう平場があり、そこここに石臼がころがっている。「水車ひとつで24基の石臼をまわしていた」という記録もあるらしい。
 水車を修理する際、水車を経由せずに水を下流にながすバイパス水路ものこっている。
 大正時代はほとんど木がはえていない山の斜面に棚田のように平場がきざまれ、それぞれの水車小屋の「管理棟」には管理人が常駐していた。
 ギシギシと音をたてて回転する巨大水車が、両脇にずらりとならんだ石臼をゴリリゴリリとまわし、精米の杵をガタンゴトンと上下させる。山道は、米俵をつんだ牛がひっきりなしに往来する。電気がない時代、水力は最大の動力源だった。
 ここは「のどかな水車村」ではなく最先端の「大工業団地」だったのだ。

水争いの歴史、農閑期しか使えぬ水車

 阪神地区は瀬戸内式気候で雨がすくないため、農民にとって水の入手は死活問題だった。
 神戸市東灘区と芦屋市の境に土樋割(どびわり)峠という不思議な名の峠がある。住吉川と芦屋川の分水嶺であるこの峠で1827年、東灘と芦屋の住民の水争いがあった。
 住吉川下流の村人が、川の水量が減ったことを不審に思って川をさかのぼると住吉川の水を分水嶺をこえて芦屋川にみちびく土樋(土管の樋)を発見した。激怒した若者たちは土樋を破壊し、芦屋側の住民が大坂町奉行所に訴える騒動になった。
 それほど貴重な水だから、水車に水をながすのは農閑期の秋から春先までだった。農繁期は、道をまたいだり、水車に水をおとしたりする木樋はかたづけられていたと考えられるそうだ。
 隆盛をきわめた住吉川の水車は、大正以降に電気が普及して動力としての役割を終え、1938年の阪神大水害で多くが流され、1979年に最後の水車が火事で焼けて消えたという。

お地蔵さん

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?