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京都ボヘミアン物語⑭師走の都にミイラ男

「11月祭」がおわると京大北部構内の銀杏並木は真っ黄色に染まる。はらりはらりと落ちる葉に憂いをふかめ、春からのばかばかしくも騒々しい日々から身をひいて、ひとり静かに図書館でページをめくる……。
 なんて殊勝なことになるわけがないのである。

雪の比叡山を越え、琵琶湖でたき火

冬は寒いから野宿はつらい。麻雀や飲み会のかたわら、日帰りで京都周辺の山を歩く。
 比叡山のふもと、修学院離宮のすぐ下にあるぼくの下宿で5人で焼酎をかこんでいた深夜、外が急に静まりかえり、午前4時をすぎるとほのかにあかるくなってきた。
 なにがおきたんだろう?
 凍てついたサッシをこじあけると、12月というのに木々は綿菓子になっている。雪明かりか。
 もうすぐ夜明けだ。
「いくか?」
「おうっ!」
 デイパックに焼酎と防寒具とヘッドランプとコンロをつめこんで、音羽川をさかのぼり、雲母(きらら)坂をのぼる。
 浄土真宗の開祖親鸞をはじめ、無数の僧侶が歩き、約4万キロの山道を千日かけて踏破する「千日回峰行」の僧がたどる行者道でもある。
 途中の川でポリタンクに水をくむ。
 比叡山は尾根までのぼると車道があるから、その直前の展望のよい場所で飲むのを常としていた。とりあえず、湯をわかして「いいちこ」湯わりを1杯、2杯。
 寒くなってきたらペースをあげて、延暦寺の根本中堂などを通過して琵琶湖にくだって湖畔でたき火をたいて、仕上げにまた飲んだ。
 最近は琵琶湖岸のほんとどは直火のたき火は禁止のようだが、当時はアウトドアブーム以前で、たき火で注意されたことはなかった。
(冒頭の写真は、琵琶湖畔でクールファイブのまね)

高校駅伝の大観衆のなか、お騒がせ

でも、近隣の山歩きだけではつまらない。例会で冬場のイベントを話しあっているとき、12月末には高校駅伝がある、というニュースをテレビが報じた。京大のある百万遍もコースになっている。
「駅伝でなにかできるんちゃう?」
 だれかが発言した。
 例会会場になった部屋のベッドのわきに、買ったばかりのトイレットペーパーが積みあげられている。
「これや! ちょっとフジー、これ巻いてみ!」
 悪だくみを思いついた4歳児さながらにタケダがロール紙を手にとった。
 あっというまにぐるぐる巻きにされ「ミイラ男」が完成した。

駅伝当日、数人のミイラ男が、小旗をふる観衆の失笑を買いながら沿道から選手たちを応援した。でも応援だけじゃつまらない。選手の一群が走り去った直後、歩道から東大路の車道におどりでた。
 ピピピーッという警笛と群衆のどよめきのなか、ミイラ男たちも200メートルほど駈けぬけ、大学構内に消えた。

石垣の上の「カフェ」はコーヒー50円

今出川通りと東大路の交差点である百万遍は、数々の奇天烈なイベントがもよおされてきた。なかでも抜群のセンスだったのは「石垣カフェ」だ。
 百万遍交差点に面した石垣は長年「立て看」の設置場所だった。
 京大当局は2004年秋、歩道整備のためこの石垣を撤去すると発表した。2005年1月、反対する学生が石垣を占拠してやぐらをたて「石垣カフェ」を開店。コーヒーや紅茶を50円で提供した。4月には石垣カフェの裏に「いしがき寮」を建てて、一部の学生が住みはじめた。
 2005年8月、石垣や樹木を保存しつつ歩道をつくるという学生が提案した妥協案を大学側がうけいれた。8月16日の大文字の送り火が消えると同時にカフェは「閉店」した。
 このニュースを、当時30代後半だったぼくらボヘミアンたちは重くうけとめた。
「やったのは吉田寮か熊野寮の連中やろ。ボヘは完璧に負けたな」
 敗北感をかみしめながら終電まで、いや終電後はスナック「ヒスイ」に場所をうつして未明まで飲みつづけた。
 ちなみに吉田寮生の企画力には、ぼくらの時代も勝ったためしがなかった。

たとえば教養部(吉田南)構内に鎮座していた「折田先生」の銅像。
 しばしば落書きがほどこされ、モアイ像やウルトラマンなどさまざまな姿に変身してきた。落書きに音をあげた大学当局が1997年に銅像を撤去すると、同じ場所に「折田先生像」のオブジェがたてられた。今は毎年入学試験の日に登場している。
「折田彦市先生は、第三高等学校の校長として京大の創設に尽力し、京大に自由の学風を築くために多大な功績を残した人です。 どうかこの像を汚さないで下さい」
 大学側は落書きの自粛をもとめる看板をかかげたが、今はこの看板のパロディーが毎年キャラクターのわきにそえられている。
 2022年の「崖の上のポニョ」姿の折田先生像の説明は「折田彦市先生はさかなの子として人間になることに尽力し、京大にパークパクチュッギュッ!の学風を残すために多大な功績を残した人です。どうかハムをたくさんあげて下さい」だった。
 ずいぶん昔、「ゴルゴ13」の説明は傑作だった。
「折田彦一先生は、超A級狙撃者(スナイパー)として学内の清掃に尽力し、自由の学風を築くために、多大な功績のあった人です。どうかこの像の背後に立たないでください」
 折田先生像の落書きがはじまったのは1986年ごろ。まさにぼくらがボヘミアン現役のころだ。「犯人はボヘミアンでは」という噂が一部にながれたが、ボヘにはそこまで豊かな発想力はない。あきらかに吉田寮界隈のしわざだった。

百万遍交差点「こたつ」事件で

2018年2月には、百万遍交差点のどまんなかで、若い男女数人がこたつをかこむ「事件」があった。ヘルメットをかぶり、拡声機で演説する者もいたらしい。警察官がかけつけると、こたつをリヤカーにつんで大学構内にむかって立ち去った。3カ月後、32歳の大学院生ら3人が逮捕され、道路交通法違反で罰金4万5000円が課せられた。
「こたつをリヤカーにのせてスタコラサッサと立ち去るのは絵になるけど、交差点のどまんなかにいすわるのはちょっとやりすぎやなぁ」
 50歳前後のボヘミアンOBの飲み会でぼくが言うと、
「リヤカー2台を連結して畳とこたつをのせて、青信号のあいだだけ、交差点に進出して、赤信号のあいだは歩道で飲んだらええんや。3分に一度往復するほうが笑えるやろ」
 そんな発言をしたのはだれだっけ? 酔っぱらっていてよくおぼえていないけど、おそらくセージだ。
「常識ある社会人」の発想をしてしまったぼくは「負けた」と思った。(つづく)

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