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喜多方の蔵とラーメンと素掘り水路+大内宿
蔵の町をまもった写真店主
2021年5月、二本松市の有機農家の取材のついでに36年ぶりに喜多方を訪ねた。
「あづま旅館」(素泊まり5500円)に荷をおろし、まちを歩くと、土蔵の多さにおどろく。
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酒蔵はもちろん、新聞販売店も飲食店もふつうの店も土蔵造りだ。蔵造りの寺もある。
白漆喰・黒漆喰・洋館風のれんが造りなど様式もさまざまだ。
そばどころだけあって、「そば打ち道具」を売る店もある。そばを頻繁に打っているころだったら、のし板と麺棒とこね鉢をよいものに買いかえたろう。
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「片倉のシルク号自転車」という看板に目がとまった。養蚕と自転車になんのかかわりがあるのかと思って調べたら、片倉工業という製糸会社が、戦後に自転車をつくる片倉自転車工業を設立し、その後、「片倉シルク」という社名になったという。この会社はなくなったが、自転車製作は絹自転車製作所(埼玉県鳩山町)にひきつがれた……。喜多方とは関係なかった。
中心街の小田付地区は、1582(天正10)年に町割がなされ、市がひらかれるようになった。江戸時代には酒や味噌、醤油の醸造業が発展し、交易の中心地として発展した。
昭和40年代になって、地場産業の衰退とともに、蔵の役割がうすらぎ、農村部でも籾蔵や作業蔵、道具蔵のとりこわしがすすんだ。
1970(昭和45)年から86年まで市長だった唐橋東氏は「つかわれていない蔵を壊し、駐車場にして商店街を活性化しよう」とよびかけていた。
周辺の蔵を撮影していた金田写真荘の店主、金田実さんは危機感をおぼえて唐橋市長を自宅によんだ。みずから撮影した写真を座敷いっぱいにひろげてつめよった。
「あんた、この蔵たちを殺す気かい!」
唐橋市長は、蔵の美しさにおどろき、それ以降、蔵擁護派に転身した。(喜多方蔵の会のHPより)
金田さんは1972年に市内で写真展を企画し、73年には会津若松市、74年には東京の三菱オートガーデンで開いた。75年にNHKの「新日本紀行」で「蔵ずまいの町」と紹介されて「蔵のまち喜多方」が定着することになった。
小田付地区は2018年、重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
日本一のラーメン店密度 原点は中国の青年
喜多方といえばラーメンである。町を歩くとラーメン店ばかり。100店近くあり、2006年の市町村合併以前の旧喜多方市は、人口あたりのラーメン店数が日本一だった。
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夕食は宿でおしえられた「和」という店で「とりそば」を注文した。醤油味でだしはしっかりしていて、鶏肉はホロホロとほぐれる。
翌朝は午前8時すぎ、英語ガイドにも「ベストショップ」と紹介されている「まこと食堂」へ。
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喜多方には「朝ラーメン」という不健康な習慣があり、朝だけ営業する店もある。
中華そば700円。あっさりすっきり醤油味だが、だしがよくきいている。ちぢれ麺にスープがからんでおいしい。「とりそば」のこってり味もよかったけど、伝統的な「まこと」の方が好みの味だ。戦後直後の創業だそうだ。
喜多方ラーメンの歴史は昭和のはじめにさかのぼる。
1925(大正14)年に中国浙江省から来日した19歳の藩欽星さんが、1927(昭和2)年におじをたよって喜多方に来て、チャルメラを吹いて屋台をひき「支那そば」を売り歩いた。彼の店は現在も「源来軒」としてつづいている。
戦前からの店主にくわえ、中国からの引揚者が戦後、大陸でおぼえた支那そばの店をはじめた。そして「蔵のまち」として有名になることで、10軒前後だったラーメン店は10倍増することになった。
江戸時代の素掘り用水路
旧喜多方市の北の旧山都町の農村に、江戸時代以来維持している素掘りの用水路があるときいた。茅葺き屋根をトタンでおおった家が点在する集落はわかったが、人影がなく用水路にはたどりつけなかった。
2023年5月、ふたたび用水路のある「上堰棚田」をめざした。
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飯豊連峰の真っ白な山塊にむかって喜多方の町から20分ほど走る。山里の相川郵便局で場所をたずね、本木という集落に車をおいて阿賀野川をわたった。この川の下流で新潟水俣病がおきたのだ。
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棚田の上辺に沿う道をたどると幅1メートルほどの農業用水「本木上堰(うわぜき)」があらわれた。素掘りの水路が山腹を等高線にそって6キロつづいている。江戸時代中期の1736年から12年かけて1747年に完成した。これによって140石(1石は約150キロ)140ヘクタールの新田がひらかれた。
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一部はコンクリートやチューブで補強しているが、半分以上は素掘りのまま。水利組合の地元農家が高齢化で年々減るなか、2000年からは地元有志やボランティアが定期的に堰さらいをして維持しているらしい。
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山都駅前のそば店「やまびこ」で「天ざる」をたべた。地元のアスパラやタラの芽の天ぷら、手作りの刺身コンニャクがが美味しい。「水そば」は文字どおり、そばを水につけてすする。そばの甘みがわかりやすい。福島発祥の食べ方という。
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学生がまもった茅葺きの大内宿
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帰途、会津若松の南の山中にある大内宿(下郷町)にたちよった。喜多方からは車で1時間ほどだ。
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かやぶき民家が軒をつらねる集落にはいると、道は舗装されていない。側溝に清水がながれ、ポコポコチャプチャプと音をたてている。
富山の五箇山や岐阜の白川郷もよいけれど、大内宿のほうが農村の生業のにおいがかんじられる。
本陣跡には、本陣を模した茅葺きの「町並み展示館」がある。戊辰戦争で本陣の資料は焼失したから、別の場所の本陣を参考にして1984年にたてられた。
江戸時代は宿場町だったが、1884(明治17)年に新日光街道ができると宿駅の機能をうしない、養蚕や麻などの農業集落になった。そのときに一度すたれたから茅葺き民家がのこった。
大内宿復活の最大の立役者が、武蔵野美術大学建築学科の学生だった相沢韶男さんだった。1967年に大内を訪れ「まるで江戸時代のまま」の集落に感動した。
だが高度経済成長とともに44戸の半数がトタン屋根にふきかえられ、車庫を家の前にたてる家も増えていた。相沢青年は集落の保護を訴えつづけた。
上流の大川ダム建設工事(1987年竣工)が終われば仕事がなくなる。
「大内の宿場が復元保存されてこそ観光客は増え、まわりのスキー場なども生かされる」
下郷町役場の説得に地元住民が合意し、1981年に重要伝統的建造物群保存地区にえらばれた。「大内宿保存会」が結成され、「大内宿を守る住民憲章」に「売らない、貸さない、壊さない」の3原則をかかげた。
その後、サッシから板戸に交換したり、トタン屋根を茅葺屋根になおしたり、コンクリート家屋の一部をかやぶきにする家もでてきているという。集落の側溝はかつては道のまんなかにあったが、車両の通行のためか道の両脇につけかえられた。これをもどせば、江戸時代の里の風景になるのかもしれない。
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田んぼを数百メートル歩いて山際の高倉神社へ。鎮守の森はスギだ。周囲が広葉樹だから逆にめだつ。大杉は樹齢800年、樹高56メートルもある。平清盛に反旗をひるがえした高倉宮似仁王をまつっている。以仁王は「宇治川の戦い」で戦死したが、実はひそかかに脱出し、大内宿に潜伏してから越後に旅立ったとつたえられている。多くの剣が奉納されているのは、その伝説と関係があるのだろうか。
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