『東日本大震災の復興支援その1』

前回の投稿の続きを、また書いてみようと思います。

https://note.com/fujiharamasa/n/n1637913ccdcb

梅田での、ヘルパー学校の授業中、3月11日の14時46分、大阪は震度4の揺れがあり、震源地は東北と聞いて、一旦授業は中断となり、関東の友達数人に連絡がとれ、凄い揺れだったと聞きました。
その後、東北に見たことない津波が押し寄せ、被害は皆さんご承知の通りです。

⤴️これ、ボランティアの鉄則です。『できる人が、できる時に、できる事をする』😀

あの津波の映像を、ブラウン管を通じて、毎日みていると自分の中で、なんか熱いもんが込み上げてきました!🌊

ヘルパー学校が、4月の半ばで卒業出来るので、現地に行って復興支援の手伝いできるぞ!

金はないけど、無職やから時間はたっぷりあるぞ! 

日本で起きた戦後最大の天災やし、円も所縁もない東北に行って、何かしなければ!

ボランティア活動の、少しのスキルあるので、これは大金叩いて現地に行くべきやろ!

とまあ、毎日頭の中でグルグル回る🌀感じでした💦

⤴️上3枚の写真は、復興支援後、大阪に戻り地元で出来るボランティア活動の色々です。

なんやかんや、10年継続してやり続けました💦

ヘルパー学校卒業後の2 日後に、大荷物抱えて福島県相馬市に入りました。

なにせ、貯金残高19万円しかなく、お金どうしようか?
と思ってたら、何かあった時に備えて母親に50万円預けてたのを思いだし、20万円バックで、しばらく東北の復興支援に行くとだけ伝えました。

20万円握りしめて、近鉄バス🚎の夜行バス福島行き。13時間後に福島駅に到着、夜ご飯食べて、更に相馬行きのバス🚎に乗り換え90分で、相馬スーパーアリーナの横の公民館に到着。

事前に、相馬市社会福祉協議会(社協)に何度も電話して情報仕入れてたので、場所は把握してました。

相馬市に行こうと思った理由は、当時、県外からのボランティアの受け付け◎なとこが、相馬市しかなかったからです。

荷物いっぱい、両手には被災者の方に渡そうとかき集めた支援物質。📦

公民館に着いたら、真っ暗で恐る恐るドアを叩くと、中から人が出てきて、畳1枚と毛布1枚を手渡され、全国からボランティアに駆けつけてた人達が休んでました。

軽く自己紹介!
大阪から来た藤原と申します。明日から2週間位、ここに滞在して復興支援のお手伝いします。宜しくお願い致します。

私が一番遠くからきた人だったようで、寝泊まりされてた10人位の人達が、かなりビックリされてました。

夜も遅かったので、空いてる場所に畳引いて持参してた寝袋引いてダウンジャケット着こんで、毛布被って緊張しながら寝たのを、鮮明に覚えてます。

4月半ばとはいえ、福島の夜はかなり寒かったです。

翌朝、とんでもない景色をみる羽目になりました。

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