『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の話

まんだらけに売り飛ばした同人誌の代金を受け取るべく中野への行き方を調べたら、渋谷からバスが出ているらしい。四十分かかるけれど、無職だから時間は腐るほどある。それに中野で時間を潰そうとしたらまた金を使ってしまうし、そういう事態は避けたい。お金は節約しなくてはならない。
東京では何をするにも金がかかる。昨日読んだ『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』にもそんなことが書いてあった。 “ここではなく東京に行きたい” たくさんの地方出身上京者達。僕は “ここではないどこか” に行きたい横浜出身なので彼らの気持ちが痛いほどわかる、というわけではなかったけれど、それでも色々と思うところがあった。

『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』を読んで最初に身につまされる層、といって最初に想定されるのは恐らく上京した者たちである。しかし、上京したことの無い人間にもこの本は刺さる。それはなぜか。
この小説の中で目立つのは、所狭しと並べられた固有名詞たちの存在である。大学名、企業名、ブランド、土地の名前。それらはその名前が持つイメージだけを読者に想起させるだけではなくて、そのブランドに集まる人たちの姿も浮き彫りにする。ブランド物を悪く言うのではない(僕にだって好きなブランドくらいある)が、この本は、それに踊らされてしまう人々の愚かさを、実在するブランドの名前を使うことで容赦なく描いている。
この本に出てくる人々はブランドに踊らされる。ある者はそれを手に入れるが、だからなんなんだという問にぶつかったり、自分が捨ててきたものを持ち続けて幸せになった人を妬む。ある者はそもそもそれを手に入れられず地元へ帰っていく。
『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』では、上京してきた者たちの地元も酷な程に描写される。町の風景だったり人々の感じといった土地の空気感が、まるでその町出身かのようにはっきりと分かる。
この本を手に取る地元組は、きっと東京に憧れている、もしくはいたのだろう。その憧れを捨てることができずTwitterに張り付き、地元本屋には置いてないであろう『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』をAmazonで買う。そして東京は出なかった自分の選択肢は正しかったと自分を慰めたり、かつて呪った、自分が東京へ行くことを許さなかった環境の正しさを理解しさらに絶望したりする。
東京に出ていって帰ってこない者たちと、地元に残った者たち。そのギャップを解像度高く書くことができている理由は、固有名詞の使い方にある。

僕も最近、高校生になったくらいから憧れだった職業に見切りをつけ、実家で暮らしている。実家と言っても横浜の東京へのアクセスも抜群にいい所だし、一人暮らしも埼玉でやっていたので上京したことのあるとは言えない。しかし、今自分は、一体何をしているんだろうという感覚は僕にもある。東京は麻布十番で激務に追われていた時のことである。
オフィス自体は麻布十番にあったが別に給料のいい仕事をしていた訳では無い。だから食事は常にダイエーで買った弁当だった。
夜になっても終わらない仕事をしながら、あの界隈を練り歩く人々を見た。いや、正確には車でやってきて、車で去っていく人々を。彼らは歩いたりしないのだ。
連日終電を逃しながら煌びやかな街を汚い格好でうろつき、それに嫌気がさしてはじめた仕事も三年持たずに実家に帰ることになった。
何年もかけて自分はなかなか上手くできないことを理解して、そうするとなんだか自分の限界も見えてくるようになる。周りを羨ましいと思うことすらできなくなって、残ったのはただ、自分は何もできない人間だという無力感のみだった。だったらもう何もしなくていいや、というタチの悪い開き直りも覚えた。そして開き直ってしばらくすると、何もしなくてもどうにか生きていける恵まれた生まれに甘える自分の弱さが嫌になるのだ。

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