忘れ難き彼の人

それはそれはびっくりするくらいに綺麗な人との出会いっていうのは、基本的に忘れようと思っても忘れられないものになる。もうその人とはすれ違っただけだし、二度とすれ違うこともないのだろうな、というものであっても。僕にはそういう出会いが三つあって、そのうちの一つ、渋谷はスクランブルスクエアでのことである。

スクランブルスクエアの一階はいつものように大変な混みようで、歩くのも大変だった。多分あれはコロナ前だったと思う。
その人は、上階に向かおうとエスカレーターを目指す僕の前から歩いてきた。一瞬ちらりと見ただけだったので、どんな顔をしていたのかは覚えていないのだけど、それでも彼女が放っていたあまりに強烈な雰囲気に振り返らないわけにはいかなかった。
美人を見て思わず振り返るとき、大体は『あ、美人だ』と思って振り返る。でも彼女の時はそうではなかった。視界のなかに一瞬現れた、異質と言ってもいいくらいの雰囲気で、僕は反射的に振り返ってしまった。
振り返った時には彼女はもう人混みに消えかけていたけれど、そのパキッとした濃い空色の着物にアイボリーの帯、高くて細いヒールのついたブーツは簡単に見つけられた。艶のある黒髪はアップで、頭の後ろで複雑な形にまとめられていた。手に持っていたのは、小さな黒い革のハンドバッグだけだ。
後にも先にも、ああまで無意識に後ろを振り返ったことはない。自分の足が止まって後ろを振り返り、その人の後ろ姿を見るまで、自分が今、なんで後ろを振り返ったのかなんて全く分からなかった。まるで操られるみたいに僕は後ろを見た時、僕は混乱していた。自分がこんな人混みで、なんで立ち止まって振り返らないといけないのか分からなかったからだ。そして彼女の後ろ姿を見て、ああ、僕は彼女のことを見るために振り返ったのかとわかった。
わかった時には既に、彼女は渋谷の中に消えていた。

普通の人が和服を着なくてはいけないシーンにおいて選ばれることは無いであろうデザインのその服は、彼女が芯から和服を好きだということが伝わってきた。もちろんちゃんと(?)和服を着る人はそういう色の和服を選ばらないし、革のハンドバッグも持たないだろう。靴だってちゃんと足袋に草履にするはずで、あんな素敵なブーツは選ばない。彼女は服を通して、自分というものを正しく発信していた。そうやって自分という個を強く発している人は意外と多くないし、そしてその中でも、その発信を正しくできている人っていうのはさらに少ない。多分そういう珍しさも、彼女の存在に思わず振り返ってしまった理由だと思う。

一体彼女はどういう人なんだろうか。僕は渋谷のスクランブルスクエアにたまに行く度に、あの時のあの人ともう一度すれ違えやしないだろうかと思う。完璧度という観点から、あらゆるものの中でああまで完璧なものっていうのはそこまでお目にかかれるものではない。それくらいあの日あの時の彼女に、言うところなんかなんにもなかった。

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