2話 わたしは、おかしくなんて、ない
私は、家から会社まで1時間30分かかる。
その中は常に満員電車だ。ぎゅっと胸や体を押し付けられるととても痛い。
身長も低いから尚更体への負担が強い。
「あぁ…なんで私こんなことしてるんだろうなぁ」
思わず本音が漏れてしまう。
満員電車を終えると、徒歩15分だ。
ただでさえつかれた所に、運動のダブルパンチで今にも体が悲鳴を上げそうだ。
でもこっちは幾分かましだ。
時間が合えば唯一の友達と一緒に行ける。
今回は時間が合って無事に鉢合わせすることができた。
「…昨日、ご飯食べたの?」
同僚に出合い頭そう聞かれた。
彼女の名前は水。大分珍しい名前で、おそらく全国どこを探しても同じ名前の人はいないだろう。
「…どうして?」
「なんとなく」
水はそっけなく返す。
「食べたよ」
「嘘はダメ」
私が言い切る前に水がつぶやいた。
水は少し怒っているみたいだった。
鞄から何かを取り出して、私の目の前に突き付けてくる。
「たぶんこれならお腹に負担かけない。だから、飲んで」
渡して来たのはウィダーだった。
私が戸惑っていると、水は私の手に無理やり持たせた。
「今、飲んで。」
水は真剣な表情で私に迫ってくる。
その剣幕に負けて、私は反射的に返事をしてしまった。
蓋を開けて、飲もうとする。
「ちょっとあっちで飲んでくるから待ってて」
私はそういって水の元から離れた。
彩萌は思った以上に危険な状態だった。
他の人を気にかける余裕がなかったからわかっていなかった。
昨日、深夜に由宇からメッセージが届いていた。
「あやがご飯食べられなくなってる…。どうしたらいいかな、私。
このままじゃ、あや本当に倒れちゃうよ」
そう届いていた。電話も20件くらい来ていた。全部、由宇だった。
彩萌はあんまり他の人に「自分が辛い」ということを言わないタイプだ。
それに、あの子は不利なところが多すぎるんだ。
まず、彩萌はかわいい。同性から見たって、可愛らしい。
どうやら男にも思われているらしく、しょっちゅう絡まれている。
そして、体型。背が低くて無駄に胸がある。
社内でセクハラみたいなことはよく見かけるけど、彩萌が言わないだけで本人はかなり多く受けているんじゃないだろうか…。
「水、おまたせ。おいしかったよ」
彩萌が帰ってきた。
「本当に飲めた?」
「…本当だよ。嘘じゃないよ。」
彩萌は笑って答える。
「もう一個。お昼用。渡しとく」
僕は無理やり彩萌の手にウィダーを渡す。
その後、僕と彩萌は地獄への道を歩き始めた。
――――ホントはあんまり飲めなかった。
――――どうしちゃったのかな、私。
――――由宇も、水も私を心配してくれてるのに…私はそれを踏みにじったりして…。
――――私、本当にダメな子だ…。
会社につくと私の胸のモヤモヤが増大し、気持ちがどんどん悪くなってきた。
お腹も痛くなり始めて、頭痛も激しくなってきた。
思わずちょっとかがんでしまう。
水が背中をさすってくれた。
我慢してきた感情や気持ちが緩む。すると吐き気が瞬間的に強まった。
「うぅぅうっ」
情けない声を上げてしまう。最後は殆ど声になっていなかった。
えずきが激しくなり、喉が熱くなった。
水がティッシュを床に敷いてくれている。そこに出すしかない。
由宇が深夜に電話やメッセージをしてきたのは、彩萌が本当に危険な状態だ。そういいたかったのだろう。
それは頭ではわかっていた。
でも、たった15分一緒にいただけで、彩萌がどれだけ窮地にいるかを痛感した。
どれだけ無理をしていたのだろう。いつも、こんな感じなのだろうか?
こんな生活を、会社に入ってからおよそ1年続けていたのだろうか?
…本当に、死んじゃうんじゃないだろうか。
「あや、今日は休もう?」
僕は無意識にそう呟いていた。
「ぅえっ?」
彩萌はまだえずきながら、返事する。
「お願いだから、休んで」
僕は、ロボットのようにそう繰り返した。
「だ、だいじょぶ…。これだしたら、もういける…から」
僕は彩萌が無理やり立とうとするのを止める。
「うるさい。そんな何回も吐く子が大丈夫なわけないでしょ」
僕は怒りに任せて少し語気が強くなる。
「ま、まだ1回…だよ。へ、へいき」
「昨日」
その言葉を聞いた瞬間に彩萌の表情が変わる。
「昨日も、吐いたんでしょ?由宇から聞いた」
「だいじょうぶだってば」
僕は彩萌を無理やり掴む。
「行っちゃダメ!本当に死んじゃう!」
「は、離してよ。平気だってば。わたし、こわれてなんて、ない」
彩萌の力が強くなる。
「わたし、おかしくなって、なんか、ない」
彩萌はまるで自分に言い聞かせるように、つぶやき続けている。
「わたし、むり、してなんか、ない」
「わたし、だいじょうぶ、へいき」
こっちを見る彩萌の目は焦点が全く合わない。
「しんぱい、いらない。わたし、まだ、がんばれる」
僕の手は震え始めていた。15分前の彩萌とはまるで別人だ。
そこには壊れた機械のように、自分に声をかける彩萌がいた。
全く感情のこもっていない、無機質な声。
彩萌の本当の意志と反した、嘘で塗り固められた言葉。
僕は彩をおぶる。
「や、やだ。行かなきゃ、わたし、行かなきゃ」
彩萌が暴れだす。
「怒られたくない…怒鳴られたくない…いやだ…いやだ…」
彩萌の反抗が強くなり、水はバランスを崩してしまった。
2人とも体型は大差ないからか、簡単に彩萌は抜け出してしまった。
しかし、彩萌は動こうとしない。
不思議に思って見ると、またえずき始めていた。
さっきは個体のようなものを出していたが、今度は完全に液体を出している。
もう、お腹の中に文字通り「物」がないのだろう。
えずいている彩萌の肩を支えながら、僕は近くにある病院に彩萌を連れて行った。
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