essay #1 エゴ
起きている事象に名前をつけたり、意味付けをしたり、自我を持たないものに意志を感じようとすることが日に日に嫌いになっていることを感じる。
緑が風にそよいだり、ふと見上げたら星が流れたり、波に乗って足下に貝殻が運ばれてきたりしたとき、私は「風も味方をしてくれているようだ」とか「星が私を待っていたみたいだ」とか「これはなにかの前兆だ」とか言いたくないのだ。
人間は言語を使ってものごとを考えることができる数少ない動物で、文化を醸成することができ、感情をさまざまな形で表現し、他者と共有しながら場を作っていくことができる。
だから脳や感情、言語を持たないほかの有機物/無機物に対して、理解や対話ではない「解釈する」という行動が明確にできることは私たちの特権だと思う。
けれどもその解釈に「きっとこうであるはずだ、こうあってほしい」とエゴイズムが過剰に存在しているとき、人間って勝手だなあと思うのだ。
それは果たして、ニヒルな視点なんだろうか。
例えばSDGsを謳う人たちのことを好きになれないのも同じ出発点だ。
「豊かな自然環境を守り動物たちの幸せを守るため」は「豊かな自然環境と多様な動物が存在し続ける世界を『私が』望んでいるため」だろうし、「エネルギー源は地球が与えてくれた貴重な資源だから」は「今使っている資源を使用してつくるエネルギーを『私が』これからも使いたいから」のはずだ。
こうした未来は脳で考え言語化して行動し道具を使用して意図的にモノや文化を醸成する能力を得た人間側が望んでいることであって、私はそのエゴを自覚している状態の人間は好きだ。
あなたがそうしたいから、その未来をつくるのだ。
それは言葉を発さない「なにか」の意図を汲んだ共通の使命のように謳うことではない。
あなた自身が行きたい未来があるから、そのために同じ思いの仲間を集めて動くだけなのだ。
それができる人間の能力の、なんと稀有で素晴らしいことか。
意志を持たないものや現象から着想を得ることは素敵なことのはず。
そこに、私は人間中心のストーリーを当てはめないでいたい。
そこにあるもの、起きたことを、そのまま受け取りたい。それを見た、聞いた私が何を思ったのかを、言葉にしたいのだ。
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