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南都十三鐘(なんとじゅうさんがね) [現行上演のない浄瑠璃を読む #6]

初演=享保13年[1728]5月 大坂豊竹座
作者=並木宗輔、安田蛙文

奈良時代、長屋王子が藤原広嗣とともに帝位簒奪を図る中、橘諸兄が国家安泰を守ろうとする物語。
最終的には題名通り、「鹿殺しの罪で(身代わりとして)死罪になった子供の追悼のために撞かれる13回の鐘の音」の由来にまつわる物語に収束していく。それ自体は普通と言えば普通で、地味。

しかし、話がそこに至るまでに、わずかな欲心やその場しのぎのごまかしからしたことが最終的にどうしようもない事態を招くというエピソードが2つ入っている。それが、ただひたすらしみじみと暗い、重い。
心のどこかではわかっていた罪の意識に向き合ったときにはもう遅く、その報いが自分ではなく、自分以上に替え難い物に跳ね返ってくる。しかも、そんな犠牲を払っても誰も幸せにならない。事情が重なってドラマティックに悲劇的状況へ陥るというより、そんないい加減なことをしていたら、いつかそうなっても仕方あんめえな、という話運び。『仮名手本忠臣蔵』の勘平のシチュエーションに似た、「どう反応せいっちゅうの?」的、イヤ〜〜〜な気分になる。

ひとつめの悲劇。荷物の入れ替わりの虚偽がおおごとになる話。

侍に取り立てられることが決まった奴が、荷物の入れ替わりによって、金目のものが入った挟箱を偶然入手する。元の持ち主から返還を迫られるも、証拠がないとして揉め事になり、父の窮地を見兼ねた奴の子供が元の持ち主を刺す。
ことが大きくなって裁判になるが、奴がやっと入れ替わりを認めて和解になった時には元の持ち主が死んでしまい、法によって子供を殺人犯として死罪にせざるを得なくなる。

そもそも奴が荷物を詐取した理由は、荷物の中身を使って武士の身なりを整えるためだった。初お目見得にキチンとした格好で行かなくては、たとえ侍の身分になっても馬屋番などの低い身分に甘んじてしまう。自身、ひいては息子の出世のため、できる限りの盛装で参上して出世がしたいためだった。
ここまででもかなり痛々しい話だが、このあとの展開がもっとひどい。

子供を処刑するにあたり、さすがにかわいそうなので「実の血縁者を子供の身代わりにする」ことになる。ここで、「実の親を見極めるため、子供をの両腕を左右から引っ張り、勝ったほうを親と認める」という、どこかで聞いたことがあるような勝負をすることになる。
引っ張り合うのは祖母と義母。義母が血縁者でないことははじめから全員周知の義理の親子だが、それでも子供の身代わりになると主張する。結果、義母が勝つが、裁判を行なった橘諸兄の執権は、祖母を処刑すると告げる。本当の親なら子供が痛がるのを見ていられないはずのため、先に離したほうこそ真実の親であるという解釈で、ここまではよくある説話の通り、そのまま。問題はそのあとの展開。
祖母は子供が痛がるのを見かねたために離してしまったというのはわかる。義母のほうはなぜ引っ張ったのか。子供を見殺しにすることができないのと同様に、義理ある祖母を殺すわけにはいかないため、自分が死ぬために無理にでも子供を引っ張ったという設定……なのかと思いきや、裁判官である執権は「実の親子ではないから引っ張ったのだ」と断定し、義母はそれを恥じて自害。

ええ〜……?
義母は義理だからこそ子供を可愛がっていたのは事実だし、子供もよくなつき、それを祖母もよくわかっていたのに、他人が勝手にどうこう言うことか? しかもこのあと、子供や祖母が嘆くのを見た執権は、義母を殺しの犯人とすると言って、手負いの彼女を獄屋へ引いていくという展開になる。
何がしたいんだ? そこまでして人を試すのって、不気味すぎるし、気持ち悪い。試したところで何の意味もないし。モヤモヤして、かなりイヤ〜〜〜〜〜〜な気分になった。
※義母と子供の関係はかなり複雑で、預かっている子供は、夫(奴)の妹の子供。つまり子供にとっては父親も義理。奴の妹が傾城勤めをしているため、奴が父親代わりに預かったのを、自分も母代わりになって養育しているという状況。

ふたつ目の悲劇。鹿殺しの罰で子供を殺さなくてはいけなくなる話。

橘諸兄の若君が神鹿を殺したという誤解を受け、鹿殺しの罪で興福寺の衆徒から命を差し出すよう迫られる(このあたりの設定は『妹背山』と同)。橘諸兄の御台所は、若君の身代わりとして、家臣・佐久間隼人の妻に、息子の首を差し出すよう命じる。

「神鹿を殺した者は死罪になる」も「鹿殺しの疑いがかけられた主君の子の身代わりを用意しなくてはならない」も、ただ不条理。空虚なルールの押し付けにすぎないという不条理の質感にイヤなリアルさがある。有無を言わさずそのリアルな不条理に従わなくてはいけないという話になっているため、かなりモヤモヤ、暗い気分になる。

「主君の子の身代わりを用意しなくてはならない」シチュエーションでは、多くの浄瑠璃だと家臣が斟酌して勝手に行動するというパターンが多いと思うが、本作では明確に命令として子供を喜んで殺すよう直接に命じられる。
ドンデン返しで子供を殺さずに済むようになるのかと思いきや、子殺しを断ったら、命令に従えないとはどういうことかと批判されてどんどん追い詰められ、どうにも殺さざるを得なくなるというひどい展開。若君が鹿殺しの冤罪を被ったのは主君自身の責任でもあり、冤罪自体に何の対処もしないのかと思ってしまうが、そこが一切問われないのが不条理で怖い。
しかもこの件でも、佐久間隼人の妻と子は義理の親子であり、御台所が彼女に首を迫るというのは、義母として生さぬ中の子を殺すかどうかを試しているような設定になっている(子供を持たない家臣の妻と一緒になって「子供を殺せないとは忠義心がないのか」と責め苛む)。

この後、実は佐久間隼人自身が若君の神鹿殺し疑惑のピタゴラスイッチ的引き金を引いたことが露見し(悪人に弱みを握られ、反逆事件に加担していた)、隼人は切腹。隼人の実子(元々殺すように命じられていた子供)、妻の実子(途中で突然母を訪ねてきて居合わせてしまう)の2人が神鹿殺しの罰の身代わりに殺されるというひどすぎる展開になる。

佐久間隼人自身が切腹するのは、悪人に嫌々加担していたというより、あとあと何とかなるだろ程度で深く考えずに行動した結果。そもそも悪人に弱みを握られたのも、役目の金を使い込んで傾城にうつつを抜かしていた借金を肩代わりしてもらったのが原因だし。悲劇を引き起こすにはあまりにつまらない理由という設定がシビア。

これらの地味な不幸度が辛すぎて、帝位簒奪などという能天気な発想の悪企みをする悪役・長屋王子がアホに見える。

そもそも、勅撰集(万葉集)を作るため秀歌を5000首集める命を受けたが、人望がなさすぎて10首も集まらず、「天皇を呪い殺せばやらなくてOKだよね✌️」の発想にいくやつ、もうお前はカブトムシでも集めとれ。学校が爆発すれば宿題やらなくていいよねっていう、夏休みの小学生レベルの発想。だいたい、天皇になったら自分が勅撰集を企画せにゃならんだろ! その調子でどうやって天皇やってくねん!

このストーリーだと、「悪人」のはずの長屋王子より、「善玉」である橘諸兄のほうがよっぽど非道である。そういう意図をもって書かれているのだろうか。だろうな。
封建社会の不条理さに抵抗するドラマを描くのではなく、甘受するしかない熾烈な不条理、あるいは抗うことのできない巨大な暴力として、そのままに描く諦念と冷徹さが怖い。

読む方法
義太夫節正本刊行会=編、鳥越文蔵=監修、川口節子=翻刻『義太夫節浄瑠璃未翻刻作品集成 12 南都十三鐘』玉川大学出版部/2011

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