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なぜ、人は口の病気にかかりやすいのか

歯、口の健康が身体の健康に重大な影響を及ぼす、ということを先の記事で示しました。そうしたことが明らかになり、現在、歯科と医科の連携の大切さがいろいろなところで強調されています。でも、そもそもなぜ口が身体の別のパーツと分けられて今まで医療が行われていたのでしょうか。

みんなが悩む、むし歯・歯周病

むし歯は最近になって減ってきていますが、以前は風邪とおなじくらい誰でも経験するポピュラーな病気でした。歯周病は現在でも増えていて世界で最も蔓延している病気としてギネスブックに掲載されるほどです。紀元前5000年の古代バビロニアの粘土板の中には歯の治療法が記載されているものがあるようなので、人類は歴史が始まった当初から歯のトラブルに悩まされていたのでしょう。この罹患率の高さから歯に特化した医者、歯科医師という職業が生まれたのかもしれません。ではでは、なぜ体の別のパーツと比べて口のトラブルが多いのでしょうか。

口の中のメガロポリス

成人では、300~700種類の細菌が口の中に生息しているといわれます。細菌数は、歯をよく磨く人で1000~2000億個、あまり歯を磨かない人では4000~6000億個、ほとんど磨かない人では1兆個とのこと。試しに爪楊枝で歯の表面を軽くなぞってみてください。白く柔らかいモヤモヤっとしたものが付いてきませんか。これがデンタルプラークと呼ばれる細菌の塊です。マッチの頭ぐらいの大きさですとだいたい数十億、地球上の全人口に匹敵する細菌数になります。うっすらとでも目で見えるぐらいのプラークが歯の表面についていたら、東京の人口くらいの数の細菌がそこで日々の生活を営んでいることになります。プラークの中では分業も進んでいて、表面は酸素がたくさんある環境を好む細菌、プラークの奥にいくほど酸素がない環境を好む細菌で構成され、異なる種類の細菌どうして物質のやりとりも行われています。まるで交通網、輸送網の発達したメガロポリス、そんな細菌の都市国家が口の中にいくつも存在するわけです。ショッキングなことに、口の中は細菌の種類も数も、肛門より多いことが知られています。この細菌の多さがお口のトラブルの原因の一つと言えます。

プラークの中は交通網、輸送網の発達したメガロポリス!
多種多様な細菌が密集・重層して生活しています。

距離が近い!

とはいえ、腸管だって細菌がたくさんいることに変わりはありません。腸のトラブルも口と同じくらいあってもよさそうなものです。でも、腸内細菌が原因のお腹の炎症はむし歯・歯周病と比べると数が少ないです。その違いの理由は細菌と身体の細胞との距離にあります。腸の内側の粘膜の表面はムチンを含むとろみのある粘液で分厚く覆われているので、腸内細菌と身体の細胞が直接接触することはありません。ところが、口の中の粘膜を覆う唾液にムチンは含まれてはいるのですが、その粘液の層の厚みは何百分の1レベル。細菌は容易に粘膜に接触してしまいます。そして、粘膜に細菌が接触すると、その侵入を防ぐために粘膜は戦闘態勢、つまり炎症を起こします。この、細菌と身体との距離が近いことも、お口が身体の他の部分と比べてトラブルが多くなる原因となっています。細菌の中には「善玉菌」などと呼ばれる、体にとって有益なものもあるので、決して無菌が身体にとってベストというわけでもないのですが、やはりなんというか人間関係とおんなじで、細菌とのお付き合いも適度な距離感が必要なんですね。

長引く戦闘がもたらすもの

そうはいっても、粘膜はバリアとしては非常によくできています。外から勝手に細菌が入ってきても瞬殺します。傷ついても、ちょっとした擦り傷ぐらいなら48時間ぐらいで跡形もなくなります。歯科医師の仕事をしていて、口の粘膜の再生力には驚くことが多いです。某アニメで、破壊された人造人間の腕が一瞬で再生するシーンがありますが、そこに通ずるドキドキさせる生命力が粘膜にはあります。でも、楽勝な戦闘でも長引くと状況が徐々によろしくなくなってくるのです。歯周病について考えてみましょう。歯周病は歯と歯茎の境目についた細菌が長い期間そこに滞在して引き起こされる歯周組織の炎症です。先ほど言ったように、歯肉表面から細菌が入ってきても瞬殺してしまうので大事にはなりません。ですので歯周病は特に初期は症状がなく気づかないことがほとんどです。でも、身体からしてみれば、しょっちゅうそこから敵が侵入してくるわけです。ならばあらかじめ兵隊をそこに常駐しておこう、となります。身体の兵隊は血液ですね。ですので最初に歯肉が充血して腫れてきます。歯を磨いたときに、痛みなく出血するのは歯肉炎の証です。そこで気づけばよいのですが、さらに5年も10年も戦闘が膠着した状態が続くとどうなるでしょうか。例えば市街戦であれば、前線と化した街の中にはバリケードが張られ、街の後方に補給路が作られ、平時の面影は無くなるでしょう。炎症の場合、歯肉(歯周組織)は本来の構造を失い、細菌と戦うための組織(肉芽組織)に置き換わります。このとき、もともとあった歯と歯茎の健全なくっつきも失われてしまうのです。くっつきが剥がれてしまうと、歯と歯茎の間にできた隙間(歯周ポケット)は細菌の住処と化し戦線は拡大します。さらに歯周病が進行すると、どんどん歯から歯茎が剥がされていき、最終的には歯を支えている骨でさえ戦闘用の肉芽組織に置き換わります。その結果、歯がぐらぐらしてきて最終的には歯が抜けてしまいます。歯周病が進んだお口の中は長引く戦闘によって焦土と化した国土のようなものです。

バリアとしての「歯」

口の中には粘膜の他に歯もあります。歯を外部からの侵入を防ぐ身体のバリアとして考えるとどうでしょうか。先ほど粘膜ならちょっとした傷は48時間ぐらいで再生と書きましたが、では歯が欠けたらどのくらいの時間を待てば再生すると思いますか? 同じ硬い組織の骨は、例えば骨折しても数週間から数か月の間固定しておくとつながります。これは骨は2~5か月周期で新しいものに置き換わっているからです。でも、歯はこの代謝とよばれる組織の置き換わりはなく、一度生えたらずっと同じものを最後まで使わなければなりません。つまり歯の場合、欠けたりむし歯で穴が開いたりしたら、いくら待っても粘膜のように自然に治ったり、骨のようにつながったりすることはなく、治療しないかぎり永久に穴は塞がらないのです。この再生しないことが歯のバリアとしての弱さです。むし歯は細菌の出した酸で歯が解かされることで起こりますが、むし歯ではなくとも歯の材料としての経年劣化で欠けたり、割れたりもして、結果、細菌の侵入を許してしまうことになります。最近、歯の破折で歯科医院に来院する方が大変増えていますが、その原因として、人間の寿命が歯の寿命より長くなったことを指摘する学者もいます。

どんなバリアもメンテが必要です


トンガっているがゆえの悩み

口という細菌が多いところにあるのにも拘らずバリア機能がそんなに弱いなんて、「歯」って随分お粗末なつくりだなと思われるかもしれません。さにあらず、実は進化の最先端を行っているがゆえの悩みなのです。サメの歯は生きている間いくらでも生え変わるそうです。それなら歯が欠けたり歯と歯茎の間のくっつきが傷んでも、トラブルになる前に新しい歯になるので問題にならないでしょう。しかし、サメの歯では、獲物を捕まえることはできても胃袋に入れる前にすり潰すことはできません。栄養の摂り方としては大変効率が悪くなります。歯がすり潰せる形になるには、上の歯と下の歯の凸と凹がぴったり合うことが理想で、それには、ある程度の期間同じ歯を使い続けて形をすり合わせることが必要です。約2億7500万年前の初期爬虫類の化石に人間と同じような歯の破折とそれに起因する歯周炎に罹患の跡が残っている大変珍しいものがあるそうですが、この動物の歯の生え変わりの周期がゆっくりであったことが原因と考えられています。この初期爬虫類が人間の直接の祖先なのかは不明です。しかし、進化の過程のどこかでヒトの祖先はサメのようにいくらでも生え変わるのではなく、同じ歯を使い続けることを選びました。その結果、食べ物を歯ですり潰すことができるようになり効率的にエネルギーを得たため、爬虫類、哺乳類さらに霊長類へ高度な進化をとげたと考えられています。一方、その代償としてむし歯、歯周病に煩わされるようになったのでしょう。どんな業界でも最先端を突き進む苦労はあるわけです。


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