見出し画像

口の健康の価値とは何か

今般、Covid-19拡大が大きな社会問題になっています。咳が止まらなかったり、検温したら平熱より高かったりしたとき、「まさか・・・」と不安になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。それと比べると、歯科の病気は「不要不急」と思われるかもしれません。他人にうつすことはないし、命を無くすことも稀です。私の職場の病院歯科診療部門でも緊急事態宣言下では、強い痛みが生じていたり、怪我するなど緊急度が高いもの以外は受診数が大きく減少しました。でも、本当に歯科の病気は不要不急なのでしょうか。お口の健康の価値とは何なんでしょうか。

「食べる」「しゃべる」  QOLを支える歯と口

歯の働きといわれて、真っ先に「食べる」ことを考える人は多いでしょう。食べられなければ栄養がとれない、生きていく上でこれは絶対必要!一方で、栄養だけの問題なら細かく刻んだ食事を直接胃ぶくろに入れればいいんじゃないか、あるいは、点滴で血管に必要な養分を補給すればいいんじゃないか、そんな考え方もあります。実際、体が弱っていたり重度の認知症の高齢者の方には、誤嚥性肺炎の予防として「胃ろう」という直接胃に栄養を注入する管をおなかに設置する医療措置を行うことがあります。でも、考えてみてください。毎日、味わって食事をしていたのが、チューブを通して胃に食べ物が送り込まれてそれで食事完了となるわけです。まさに味気ない状況となり、生活の質(Quality of life: QOL)は随分さがってしまうのではないでしょうか。実は我が国は世界でも類を見ない胃ろう大国で、年間20万人が新たに胃ろうになっていると言われています。胃ろうの是非についてはいろいろ議論がありますが、延命かQOLかの判断が話し合いのポイントになることが多いようです。これらの議論の中でひとつ見えてくるのは、「食べる」ことは栄養補給以上の価値があるのではないか、ということです。食べて味わう行為は、味覚だけでなく、香り、食べ物の冷たさ・温かさ、歯ごたえ(触覚)など、いろいろな感覚のコラボレーションを楽しむことと考えると、とても刺激的なものであると言えます。私たちは毎食この刺激の万華鏡が織りなす景色を鑑賞しているわけです。「食べる」ことの価値はまだまだ広がります。患者さんの訴えで、義歯の調子が悪くてうまく食べることができない、というものは珍しくありませんが、よくお話をおうかがいすると単純に自身の食事の問題ではなく「うまく噛み切れないので恥をかきそうで友人との食事会に参加しづらい」等、他の人との関係の問題とご本人が考えていることに気が付くことがあります。つまり、その方にとって「食べる」ことの価値は友人との絆に直結しているわけです。最近の脳科学では、味覚の嫌悪感と社会的嫌悪感は脳の同じ部位で処理されていることが明らかになっています。私たちは「食べる」ことで食欲とおなじくらい仲間とつながりたい欲求を満たしているのかもしれません。そう考えると、歯や口が「しゃべる」こと、すなわちコミュニケーションに使われていることも、つながる欲求に関係しているとも思えてきます。高齢者施設の利用者の方に現在の楽しみについてアンケートをとると、「食べる」ことと「仲間と話す」ことがほぼ不動の1位、2位だそうです。歯と口の健康は高齢になったときに、最後まで仲間と味わい深い人生を送ることを支える重要な器官といえます。

歯・口は表現する

歯・口が担当するのは「食べる」「しゃべる」だけではありませんね。まず、歯並びは顔貌を整えます。また、ただしゃべるだけでなく、滑舌や声の質にも影響します。私の担当患者のプロのボーカリストの方は、奥歯の義歯による発音や声のひびきの変化を敏感に感じ取られていました。口を使う楽器も同じことが言えるようで、やはり担当患者の尺八奏者の方は前歯の形にこだわられていました。マイルス・デイビスというジャズ・ミュージシャンは、同じバンドのサックス奏者、ジョン・コルトレーンが歯医者に行くと聞いたとき、「俺はほとんどパニック状態だった」と自伝に書いています。本当かどうかわかりませんが、マイルスはコルトレーンが1度に2つの音をサックスで出せるのは、1本歯が抜けているためであると考えていたようです。歯科治療でコルトレーンのサウンドが変わってしまうことを心配し、なんとか歯科医院に行くことをやめさせようと、リハーサルをわざとその予約時間とかぶせたり必死な様子が自伝から読み取れます。大変面白いのでご興味のある方はぜひ読んでみてください。

歯・口はパフォーマンスに影響する

最後に、スポーツ歯科学領域で長年指導されていた先輩歯科医師からうかがったお話です。ほんの数ミクロンのかみ合わせの違いが、アスリートの成績に影響するそうです。ゴルフ選手でしたらツアーで優勝するかしないか、アーチェリー選手でもかみ合わせのわずかな調整で成績が断然よくなることがあるとのこと。そうなってくると、もはや病気を治すという既成概念では歯科全体は語れなくなります。ヒトの能力をいかに効率的に引き出し増強するかに歯科医学が貢献できる日も、そう遠い将来ではないかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?