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堺市内の熊野街道ルートの件

ずっと前に以下のような記事を書きました。

大阪・天満橋から熊野街道・熊野古道を辿る歩き旅を続けた中で、どうにも違和感を持ったルートについての考察です。
仁徳天皇陵前を通過した後、御陵通を一気に海側(西方向)へ下り、再び南下するという、歩き旅をする上で無駄にロスが大きいルート選択がされているのは、おかしいのでは無いか?という主旨でした。

先日、図書館を訪ねた折、古地図に触れる機会があり、今回検索したら、堺市と関大が協力、古地図を公開するサイトに出会いました。
無断転載不可らしく、具体的に紹介出来ませんが、それによると、江戸末期の古地図を見れば、大阪府がガイドマップで示すルートと、ほぼ重なるルートを取っている事が分かりました。当時ボロクソ書いて御免なさい(苦笑)。

どういう事か?というと、皆さんご存知の通り、江戸時代の堺の街は、四方に堀を張り巡らせた商業都市でした。参勤交代で使われた紀州街道は、堺の街を南北に貫く大通りとして整備されたのに比べると、古くからの熊野街道は当時廃れており、街を囲む外堀の外を「なぞる」ように迂回していたという事。だから、仁徳天皇陵から堀を回り込むように下り、紀州街道と接続した上で改めて、南方向へ向かうようになっていた、というわけです。

↑こちらのリンクからじっくりご覧頂きたい。

さて、以下の地図は、最近登山で活用しているアプリ「ヤマレコ」のDL用地図からの引用です。

会員の皆さんが踏破したルートがGPS計測で足跡としてオレンジ色の点で残されています。それが線となって見えています。(※太いオレンジ線は高速道路や幹線道路)
結構な人数が熊野街道を歩いている事が分かります。

登山用の地図ということもあり、等高線や陰影で地形が分かるようになっています。コレを活用して、堺の街が成り立つ以前、中世、平安時代の熊野古道ルートを考えると、やはり先述した迂回ルートは違和感有る訳です。

そもそも堺市内に有る古墳群は、大阪湾を入ってくる海外からの招待客へ、ヤマトの国も凄い建設力が有るだろう!と示す意味から海沿いの高台に建設されたといいます。つまり、当時の海岸線はもっと東寄りだった訳です。
3枚目の地図、左寄りにある四ツ池遺跡は、太古の昔、海沿いに有った集落の跡。流れは変わってるでしょうが、幾つかの川が合流し、その水が運んだ土砂が積もった土地に有り、天然の良港にもなっていたと考えられます。
という事は、現在の国道26号線〜阪神高速堺線ラインが、古代の海岸線辺りだと考えられます。
今も大鳥大社から浜寺方向は綺麗に下り坂です。御陵通も真っ直ぐ下り坂です。
上町台地を南下してきた熊野道が、そのまま高台を進み、無理に海側へ下がるのは疑問に思います。勿論、美しい茅渟(ちぬ)の海を天皇にご覧頂こうと、海沿いを進んだと仮定する事も出来ますが、境王子、方違神社を辿った事が明らかな事を考慮すると、高台を南下して、ご先祖様たる仁徳天皇陵をお参りしたのが自然です。また仁徳陵のすぐ南には履中天皇陵も有ります。

なので、前回推察した通り、現在の大仙公園を通過し、履中天皇陵を回り込みんだと思われます。
問題はその先。2枚目の地図を見ると分かる通り、陰影が目立ちます。JR阪和線上野芝駅から津久野駅の間は深い谷が有り、二つの川が合流して海方向へ流れます。うねっとした、どう見ても昔ながらの谷へ下りる道が、上野芝七丁と、賢明学院から下の公園へ下りる所に見えますから、この辺りを下り、川を渡った事も考えられます。
もう一つは、地図から外れますが津久野駅の山側に家原寺が有ります。創建704年、行基が自身が生まれた土地に建てたという古い寺なので、もしかすると、ココに寄り道した事も考えられます。
どちらも現在の熊野古道ルートとはかけ離れていますが、堺市内自体、古くからの道が、開発でズタズタですし、現ルートそのものが江戸時代など近世使われた物なので、全くの見当違いとも言えないと期待します。

兎に角、700〜800年前の道ですから、それが今も熊野の地へ続いていて、世界遺産として、コロナ禍以前は世界から多くの人々が訪れる現存する「道」である事にロマンを感じます。

地図をゆっくり眺めていると、色々推理出来るので面白いです。古地図と今の地図を見比べると、昔の人さえ身近に感じる事が出来ますね。

あなたもどうですか?興味が出たら、実際出掛けて、歩いてみたら、さらに面白くなります。

足元のアスファルトや、街中の建物等は全く違いますが、道の先、遠くそびえる山並みは、多分数百年前から変わって無いでしょうから当時の人たちと同じ景色を見てると思うと、感動しますから。

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