御陵通の違和感(熊野街道ルート考)
先程UPした記事でも愚痴愚痴書いてましたが、熊野街道の堺市内ルートがどうにも納得が行かない件について、地図を色々眺めました。
何故、仁徳天皇陵を半周した後、真っ直ぐ海側へ向かうのか?行った先で鋭角に曲がり、ほぼ真っ直ぐ大鳥大社へ向かうのか?
天皇、上皇御一行が熊野へ向かう途中、御先祖様のお墓をお参りするのは自然ですが、その後の非合理的なルートは、自分が天皇なら、いや、お付きの従者なら確実に改善を申し上げますよね。
なによりも、古代の海岸線がもっと山側だった事も考えられます。
石津神社で貰った由緒書には、日本最古の戎宮と有ります。それまで上町台地を縦断して来たのに、いきなりリスクの高い海岸線ギリギリを選ぶとも思えない。
そこで考えたのがこちらのルート。
仁徳天皇陵から道なりに履中天皇陵まで南下する方が自然なのでは無いか?と。
上野芝駅辺りから回り込む理由は川です。
今は住宅地開発で分かりにくいですが、40年程前、阪和線から眺める車窓ではこの辺り、百済川の深い谷と周囲の丘の標高差が結構有ったのを覚えています。
大昔、結構荒い川だった事も想像出来ます。
ポイントは、石津川公園の周辺道路。
石津神社南側に不自然に並行した日本の道が通っています。想像するに、大昔の川はもっと急激に、うねるように蛇行していたのでは?そうすると、石津神社に寄り道、参詣する人は、川沿いに歩き、神社裏側からアプローチ、お参りした後は、神社の由緒書の絵の通り、神社前の橋を渡って大鳥大社へ向かったでしょう。スルーする場合、もっと上流、蛇行の影響の少ない所で川を渡ったのではないか?と考えます。
さて、堺市内の熊野街道ルート、ココだけではなく、怪しい区間が散見されます。
一方、和泉市内は見事に古い道が残されていて、王子跡もしっかり案内されています。
逆に岸和田市内は、街道の殆どが府道の広い道と重なっていて、残念な状態。
この辺は、戦時の空襲などの影響も少なくないし、その後の復興が合理的に計画されたか?にもよるところが大きいでしょうから、仕方ないです。ただ、どれだけ積極的に研究するか?は、各自治体、教育委員会の熱量次第という部分も大きいかと思われます。
和歌山県は世界遺産認定も有り、道標、案内がとてもしっかりしていますが、大阪府下の区間については、自治体が変わると全く違います。
そんなわけで、上の仮定ルートの当たり外れは別として、堺市には、歴史的な遺産にもっと熱量を持って取り組んで欲しいなぁと思いました。
何よりも、熊野古道の旅をしてきた上で歴史への興味が深まる自分に気付いた今日この頃であります。