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熊野古道ルート考 ビーチサイドロード?

梅雨ですね。
ジメジメな季節。
山登りは勿論、古道歩きなど、お出かけ気分は引っ込みます。いや、それ以前に長々続く緊急事態で気持ち自体鬱々しがちです。そんな時は、歴史のロマンに想いを馳せるのが良き哉。

以前から堺市内の折れ曲がりルートへのイチャモン記事を書いたりしてました。

で、折れ曲がりといえば、大阪市内もそう。
八軒家浜から真っ直ぐ南下した熊野街道は、松屋町近辺で東方向に直角に曲がり、谷町筋を越えた所で再び南下するという変なルートを取ります。
また、泉州を南下するルートでは、折角山手の道を南下してるのに、泉佐野辺りでわざわざ海側へ斜めに曲がります。

遠路、熊野の山奥へ行くのに、どうして寄り道みたいな進み方をするのか?

実際歩いてて、どうも不思議でした。

そこで仮説を立ててみました。
今ガイドされてるルートは、平安・鎌倉時代の「蟻の熊野詣で」と言われたブームの当時と違うのでは無いか?

というのも、上にリンクを貼った堺のルートにも有ったように、安土桃山時代に発展した堺の街が、堀を巡らせ開発された為、本来とは違う迂回ルートで整備し直された可能性が高いという事でした。
つまり、大阪市内のクランクルートも同様では?そう考えました。碁盤の目で街を作ったのは秀吉です。大坂城築城に合わせて街を作りました。16世紀です。という事は、13世紀頃以降の熊野詣でブーム時期は、大坂の町が整備される前。渡辺津で舟を下りた人々は、ゾロゾロと上町台地を縦断しましたが、今とは違い、小高い山をウネウネ上下しながら尾根に上がり、南下したのでは無いか?
それを碁盤の目と化した街に当てはめた時、クランク状に指定したのでは?
そう考えました。
で、検索したら、面白い図が見つかりました。

今の大阪の街を高低差で現した等高図です。
大坂城と、その西側、谷町筋を中心とした官公庁街が薄く平地になってるのが分かります。真ん中辺り、東西に刻まれた凹みはJR大阪環状線・関西線の天王寺〜新今宮間の掘割部分。
そのすぐ上の凹みは、四天王寺と天王寺駅の間の谷間です。
その下、斜めに曲がる平地が、あべの筋から別れる阪堺電車とその周辺の町。つまり、熊野街道周辺。さらにその下。釣り針のように海側へクリンと曲がってるのが、南海高野線を跨ぐ阪堺電車の部分。そして、ギザギザ部分の「麓」辺りが住吉大社となります。
そして下に貼ったのが、昨年秋、熊野街道歩き初回の自分が歩いたルート。

コレで、熊野街道が上町台地のてっぺんを縦断していた事が、ほんのりと感じて頂けると思います。
では次に、クランクルートの謎について。
こういう図も見つけました。

弥生時代の上町台地の上半分の様子だそうです。水色部分が当時の海。平安、鎌倉時代だと、もう少し海岸線は後退していたかもしれません。薄っすらと今の街割も重ねてくれてるので、大体の場所が分かりますね。
天満橋・八軒家浜(旧・渡辺津)がオレンジ色の上町台地の西の「縁」だった事が推測出来ますね。今の熊野街道は真っ直ぐ公園脇の急坂を南下します。今の窪津王子跡が少し西側というのを考慮すると、もしかすると、本来の熊野街道はオレンジの縁を回り込んだのかも?とも考えられます。
さて、上町台地すぐ西脇の深い入江、その最奥部。薄い今の街割を見ると、斜めに東へ上がる大通りが見えます。つまり松屋町の交差点から谷町筋へ上がる長堀通です。そのすぐ上!
円弧を描いた部分、分かりますか?北側に口を開いた谷になってますね。
そう。この谷を上がれば上町台地のてっぺんへアクセス出来ます。
上がってしまえば、南北に細長い窪地を通過したら四天王寺境内まで真っ直ぐです。
この、谷を上がる斜めのルートこそ、本来の熊野街道ではないでしょうか?

昔は街どころか集落も少なかったでしょうし、現代でいう熊野古道の和歌山県内ルートのような、牧歌的風景が続いていたかも知れません。
松屋町の谷を上がったら遥か南方向に、四天王寺の五重塔が望めたんでしょうね。今、我々があべのハルカスを望むように。

もう一枚、図を見つけました。しっかり時代が書かれています。細かい部分は分かりませんが、当時の海岸線が分かりますね。ピンクの上町台地の南側、堺方向へ丘陵が広がりますが、海岸線が直ぐそば迄迫っています。中世堺の街はまだ海の中です。
そう考えると、住吉大社に寄り道した熊野詣の人々は、そのまま、シーサイドの道を南下した事が想像出来ます。
ピンクの部分が少し下で凹んでいます。
ココが堺市内、石津川と、かつての漁村と云われる四ツ池遺跡辺りだと思います。
仁徳天皇陵をお参りしつつ、海辺の高台を進んだ人々は、この谷を渡って坂を上がり、大鳥大社にお参りしたのでしょうね。

さて、泉州エリアで奇妙に海側へ進む謎。
ちょっと地図に熊野街道ルートをなぞってみました。

んー。。。
暫くぼぉ〜っと眺めてて、気付いた事が有ります。それは溜池。水色の部分が点在してますよね?街道筋に結構多くないですか?
それも山側に多い気がします。

泉州地域は昔から大きな川が少なく、渇水する事も多かったため「ため池」を作り、山からの水や湧水を貯め、灌漑に使用していました。

そう。旅人用にも水補給基地が必要だったのでは? 丘陵地帯の縁を歩く事で、湧水ポイントを繋いで、南下していったと考えられます

さて、峠を越えて紀州に入ったところですが、折角和歌山城もある広い海辺の平野なのに熊野古道は山側の峠を越えて海南へ向かいます。
コレも少し不思議だったのですが、こんな図も見つけました。

和歌山市を斜め上空から見た形の鳥瞰図。
左が北(大阪方向)です。海の中に関空も見えます。下が江戸期で上が縄文期。
コレだけ奥まで海が入り込んでたんですね。
つまり、800年前〜1000年前は、まだ平野の堆積が少なかったとも考えられます。要は、熊野古道紀伊路は、基本はシーサイドルートだった訳です。
今でこそ、海岸線から引っ込んだ部分が多いですが、ルートの多くは海沿いを進んだんですね。

そういう想像も、実際250キロ歩いたからこそ出来たのかも知れません。

とはいえ、まだ熊野本宮大社から先は歩けてませんし、那智の滝までも到達してませんから、いつかは、続きをやらないとね。
スタンプ歯抜けのポイントも有りますから。
梅雨が恨めしい。いや、真夏の熊野古道は猛暑と聞きますから、次回は秋以降でしょうか。

ん〜。身体も鈍る。
今は、こうやって想いを馳せるばかりなり(苦笑)。

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