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だんじり学〜地車は世界だ?!

また、デッカい風呂敷広げたタイトル(笑)。

我ながらアホやな、と思います。

でも世間広しと云えども、大阪・泉州(一部河内も?)の祭りほど学ぶべきイベントは無い訳です。まぁ50年以上触れてきたから分かる部分も多いんですが、他所の祭礼と比べても、コレだけ色んな面で考察の対象として興味深いものはありません。

どういう事か?

まず「〇〇まつり」と称される各地の祭りですが、大抵は、神社主体の儀式としての祭礼か、市民主体のイベントとして成立する企画だと思います。前者は、伝統が重んじられ今の世に引き継がれるもの。後者は、近年になり開催されるようになった市民レクリェーションとして成立しています。また、いずれも観光目的としての「集客」を意識した企画が重んじられる傾向があります。
前者の場合、伝統の継承が難しくなり「〇〇保存会」などの市民団体が作られ、細々と運営されたりするモノも少なくありません。
後者の場合、自治体や市民団体で「実行委員会」などが作られ、本業や日常生活に支障が無い程度に段取りがされたり、自治体が主体なら日常業務の一部として取り組まれたりします。

一方「だんじり祭り」となると、主体は町会単位であり、その連合です。自治体は専ら後方支援。準備から各方面との調整、当日の運営、警備全ては住民自らが担います。岸和田で見物した人なら目撃したと思います。数多くの警察官よりも法被を着た若連や浴衣姿の年番らの方が存在が大きかった事を。

コレは岸和田(旧市、春木地区)のみならず、10月に有る岸和田山手地区、堺市以南の各地域の祭りでも同様です。

伝統の継承という面で見ると、確かに「300年の歴史」とニュース原稿でも表現されますが、21世紀の現代見る事が出来る祭りの姿は、当初とは全く違うモノです。時代が移るにつれて、その時代に合わせて変遷を繰り返し、今見る祭りのスタイルとなっています。それは、進化した面も有るし、劣化した部分も有ると思います。

技術面で見ると、建築物としての進化。
美術面で見ると、木造彫刻としての進化。
社会学で見ると、スムーズに祭礼が出来るように考えられた上下関係構造と横の繋がり。
建築とは別にエンジニアリングとしての進化も有ります。
彫刻とは別に、音楽としての特色も有ります。

▪️基本情報(山車としてのだんじりの歴史)

「だんじり」というと、岸和田の祭りという全国的な認知が有ります。しかし、だんじり自体は岸和田のみならず、大阪南部泉州一帯で行われますし、河内、摂津、といった大阪府全域、兵庫県、和歌山県など近畿各地で見られます。また、同様の「山車」で見ると近畿以外でも有ります。何よりも、岸和田型地車の方が少数かもしれません。
元々は他のエリアで曳かれていた地車が後から岸和田に伝えられ、様々な改良が加えられたのが岸和田型とも言えます。それがメジャーになった為に、他エリアにも岸和田型が逆に導入され、ある意味侵食されたのが現状です。

地元では、ザックリと、岸和田型を「下地車」、それ以外を「上地車」と呼んだりします

上地車の例(堺市片蔵)
下地車の例(岸和田市沼町)

上地車の場合、走る速度も遅め(練り歩き主体)、やり回しより揺らしたりウィリーさせたりして「遊ぶ」のがメインです。下地車になると、高速走行と、走りながら直角に曲がる「やり回し」を見せ場とする、ある種スポーツカー的な走行が目的とされ進化しました。

細かい事をいうと構造的にも変化が多いのですが、詳細は割愛します。

下地車誕生のきっかけは18世紀、1785年、岸和田市内・北町の世話人が北隣の泉大津から上地車を借りた事に始まります。
この時、借りた地車では高すぎて岸和田城の門を潜れませんでした。そこで柱を切り、杉丸太の柱に交換して潜りました。コレをきっかけに、四本柱を二重構造にした独特の改良を加え、上部の柱を上下して城入りの際に対応させた「からくり地車」が流行しました。

そもそも、祭り自体は単なるレクリエーションでした。お殿様が城内に神社を勧請し、祭りの日に市民に城を開放しました。市民は各町それぞれで「隠し芸」を披露する形で盛り上げました。その中で、簡単な曳き車に乗って賑わいを披露してゆくうちに、山車へ飾りを加えたり、大きくしたりと変遷、他所の町よりもっともっと!という意識から、北町が地車を曳きだして「アレは格好良い!」と他町も曳き始めました。
ニーズが有れば、対応するように「作る人」も気合いが入ります。より格好良い地車にするには?と考え、改良を重ねました。

祭りはお城入りよりも、街中で曳く方へシフトし、当時のメインストリート「紀州街道」を舞台に追いかけっこがメジャーに。時代に「より速く」が求められます。広い道が出来てくると、曲がり角を華麗に曲がる「やり回し」が目玉になり「より高速で安定して曲がる」構造が求められます。
地道から舗装路が増えると、摩擦係数が減る為、止まる構造も改良されます。木で造られた地車にブレーキが加えられます(昭和34年・1959年に義務化)。
現代人、昔ほど男たちのパワーが無くなると地車が重く感じるようになり「より軽く」が求められるように。心棒が金属製になり、コマにベアリングが装着され、潤滑油が採用されるようになりました。

いつの時代もカッコいいモノは流行ります。
それまで、のんびり曳いていた他地域や上地車の地区でも、特に青年団が「あんなふうに走りたい!」と求められ、自町の地車老朽化のタイミング、購入や新調の機会に岸和田型の下地車に変更される事が増えてゆきました。

▪️流行に敏感な男たち〜青年団

このように、伝統の継承で有る筈のお祭りですが、だんじり祭りというのはトレンドに敏感で、ある種ファッション業界のようです。

自分たちが子供の頃(40年前頃)は、祭りといえば、村の中をのんびり曳行し、昼間から男たちは酒を飲み、暴れるとまでいかずとも、普段の鬱憤を晴らす場でした。普段着とか田んぼの作業着に法被だけ羽織ったり、タスキだけ掛けて参加してました。
しかし今では、祭礼参加者は全員、揃いの法被、パッチに地下足袋が一般的になりました。

「あそこの町は、あんな柄にしてる。やっぱり法被は黒が渋い!」「もう腹巻きはダサい。腹当てにしよう」など、トレンドに敏感。その中心にいるのが青年団です。青年団の言う事を大人たちは「若い人間のセンスは、やっぱり聞いておくか」となり、どんどんファッショナブルになってゆきました。
もちろん無茶な注文は払い除けられますが、カッコいい事については受け入れられます。何故か?祭りの原動力だからです。いくら年寄りが頑張っても限界が有ります。綱を曳いて走らせるのはパワーの源は青年団ですからね。

岸和田の祭りが全国的に注目された90年代、どんどん「やり回し」が華になりました。
岸和田は勿論、他地区でもメインとなる「やり回し」ポイントとなる交差点が設けられ、あっちでもこっちでも「やり回し」の為の祭りに変化しました。地域の中で他町と比較し、秀でる為には、とても分かりやすい指標こそ「カッコいいやり回し」だったんですね。

それまで大体半日は村の中で曳いてくれてたのに、最近は朝に街中に(やり回ししに)出かけたら夕方まで村に帰ってこない。。。とボヤく年寄りも少なく有りませんが。

▪️町の組織=祭りの組織

青年団のことが出てきたので、紹介しましょう。冒頭で触れたように、全ての地区で祭りは各町のコミュニティで運営されます。

祭りの為に準備を重ね、コミュニケーションを重ね、見事な曳行を果たし、後継者に引き継いでゆく。。。それ自体が町での普段の交流にも反映される。。。というのが、だんじり祭りエリアそれぞれの町内会です。

祭りとの最初の接触は生まれる前w 
母親の腹の中で太鼓を聞くといいます。
この世に生を受けたら、抱っこされたりおんぶされて祭りの日を過ごします。
歩き出したら夜の祭り。ゆっくり歩く夜の祭りには、親に片手を引かれ、もう片手は綱を掴みヨチヨチ。またある子は、地車の見送り(後方)に乗っかってユラユラ。

小学校に進めば子供会
昼の曳行にも綱の前方で参加します。周りで守る子供会の役員の大人たちからは「お前らがしっかり曳かんと地車動かんどー!」と煽られます。夜になると地車の上で見よう見まねの鳴物を叩いたり、休憩時は屋根の上で大工方の真似事。色んな「にいちゃん」「おっちゃん」らに触れて、オトナの社会を垣間見るのです。
勿論、家に帰れば家族と祭りの話、学校でも祭りが近づけば祭りの話題で熱くなります。
小さい時から「コケても綱は離すな」とか「綱は跨ぐな」とか基本知識を叩き込まれるのもこの頃。神聖な物とか、危険と安全という知識さえも学びます。

中学生に進んで2年生くらいになれば青年団
それまでは、家族に囲まれた祭りが、ついにコミュニティという外の社会と過ごす祭りに変化します。祭りのズーッと前から「寄り合い」に参加し、先輩たちのお手伝い、お世話を任されたり。新団という入りたての頃は、それこそ野球部で言う球拾いポジションです。辛い面も多い。綱の担当は綱先。子供達の前で、綱が弛まないように力を入れて曳くのです。子供達からは「お兄ちゃん!」と慕われますが、青年団ではパシリばかり。社会の板挟みを体験しながら、年々上のポジションに進みます。綱中、綱元と次第に地車に近いポジションになってゆきます。そして片手に団扇を持って部下たちを煽る役(追い役)に。その中でも一人は団長として、多くの団員を纏めるトップになります。若い面々だけでなく、上の世代の人たちとも渡り合い、時には議論に立ち向かうのです。

20代前半、ついに青年団の幹部として達成感に包まれた翌日からは後ろ梃子の「組」(三十人組とか十五人組など)。トップから再び下っ端に逆戻り。
社会人となったのに、また中2の時と同じ辛さを体験します。いや、二周目だから渡り方は分かっています。上手く人間関係をこなしながら、曳く原動力から「曲げる」原動力の一人として過ごします。曳くより曲げる難しさ!より重要なのは、一つ間違うとコケたり、ぶつけたり、時には大事な町の宝=地車が破損する事にもなるのです。息を合わせる重要さを体感します。

30代半ば。ココまで来ると、祭りも現実の社会でも経験値が上がっています。が、また中2w  若頭の下っ端です。ここまで来ると、地車の周囲を全体的に見守るポジション。綱を曳く事は余り無くなりますが、視野を広げて祭りを見る事になってゆきます。時には青年団や組の連中と言い合いになったり、一団になって盛り上がったり。上の人たちと下の子たちとの橋渡しにも。
そして世話人。アラフィフになれば、下を見るポジションになるわけです。一緒に走るより、他町の同世代と交流する方が多いかも?

こんな風に、全ての町でピラミッドが出来ています。生まれてから死ぬまで、町のコミュニティは「祭り」が根幹に有るわけです。

縦の社会とは別に、横の繋がりも出てきます。毎年、選抜されたメンバーが「町の外」に出てゆきます。
青年団の連合や、後ろ梃子の連合、若頭の連合など各世代で有ります。各町の調整、意思統一のための団体ですし、祭りになれば、自町の地車と離れて、やり回しポイントや混雑区間の交通整理、警備、調整役などを担当します。
そんな組織のトップが「年番」。
祭りの最高決定機関です。
自治体や警察など、祭り参加者のトップとして「外」との調整も担当します。
祭りになれば各連合団体メンバーのトップとして祭りを纒めます。

人生=祭りw という意味が分かると思います。いや、社会の縮図とも言えますし、自然と実社会での経験を祭りを通して学ぶともいえます。

それがね。。。
近年は、新興住宅地に入ってくる他所からの住民の割合も増えて、祭りに参加しない住民も増えてきています。中には「鳴物がうるさい」「交通の邪魔」といったクレームの元にもなり、そういった人々との交渉、調整という面も増えていたりします。
個人的には『郷に入れば郷に従って』頂きたいですけどね。。。

▪️現代ならではの問題

新住民とのトラブルもそうですが、少子高齢化も問題です。よく聞くのが青年団の減少
90年代、盛り上がった時代は目立つポジションということもあり、沢山の団員が居たものですが、今は人数も減り、縦社会の敬遠という志向も加わり、グッと人数が減っているそうです。青年団は原動力ですから人数は確保したいところです。
個人的に気になるのは、やり回しの高速化。カッコいいのは結構な事ですが、その為に、祭りが、そして青年団自体が極端な「体育会系」化しています。「綱張れ!」「耐えろ!」という掛け声を聞く度に、気の毒だし、大変やなぁと感じます。昔は、もっとリラックスして綱を握ってましたからね。そんなキツいポジション、少ない人数でパワーを出す事は、今の非力な若い人たちには辛いと思いますもん。また、中には幹部たちの引き締めが強過ぎて下っ端が辛いという部分もあるみたいです。
それで無くても踏ん張りが効かない今の人たちですから、悪循環になっているんでしょうね。

物理学的に、今のやり回しスタイルを偉い科学者に検証して欲しいです。多分、あんなピリピリせずとも、やり回しは成功させられる筈です。だって40〜50年番前は、ゆったりした感じで回してましたもんw

さて、ココまで全く触れませんでしたが、音楽の話。鳴物です。

近年、とても気持ち悪いのが「均等打ち」。

冒頭、小太鼓どう聞こえます?
トントントン。って聞こえません?
本来は、トントトン。なんです。

そうそう。コレコレ。
♩  ♪♩
コレが正しい叩き方。

いつの頃からか?2000年代前後位からか?今よりも均等打ちが酷い時代が有りました。
憶測ですが、
元々大工方同様、鳴物も特別職的に縦の世代間でエリート教育され伝承されていたものが、いつの間にか単に青年団の一部メンバー担当というだけになり、もっと上の人たちからの伝承が有耶無耶になり、近い世代間での継承だけになってしまったのが一因だと思います。
昭和51年頃の鳴物が当時レコードとしてリリースされましたが、あの時代の鳴物を聞くと、もっとリズム感が豊かでアドリブもよく効いていました。

そう。今の鳴物はぶつ切りなのも問題。
やり回しで半刻みにして、曲がった途端に刻みにアップ、数秒で一旦切ってまた刻み、数秒で半刻み、また切って半刻み。。。のように、一つの囃子をゆっくり演奏する事がめっきり減りました。音楽的な気持ちよさをもっと伝承して欲しいものです。

いずれも、アラフィフ以上の上の人たちは気付いている筈です。もっと腹割って若い人たちとぶつかってもイイんじゃ無いでしょうか。
今のうちに修正しないと。。。
更新して良い部分と、守らなきゃいけない部分をゴッチャにしたらアカンと思うのです。

まぁそういう意味では、大工方の育成もしっかり成されていないのも残念です。
今年の祭りでは、試験曳きの際、某町の大屋根がカンカン場やり回しで転落、怪我しました。動画を見ましたが、ヘッピリ腰。地車が揺れて動揺したのか?慌ててインからアウトに移る際にバランスを崩して落ちました。

他にも、大屋根で不安定な子が目立ちました。

基本、高速化著しいので昔より難しいとは思いますが、もっとしっかり身軽でバランス力の優れた人間を選抜すべきだし、踏ん張りの仕方をベテランの元大工方が、これも伝承すべきだと思います。
大手町のレジェンド山田さんのように身軽な踊りまでは求めませんがw

それでも、誰も彼も同じ踊りというのも芸が無い事です。団扇パタパタももっと復活させてもイイと思います。
そんな中、並松、本町、堺町などがしっかり踊りスタイルも伝承されてるのを、他町も見習って頂きたいものです。

ええ時代や。

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