「君は天然色」の眩い絶望について
3月21日、大滝詠一の「ナイアガラ」レーベル時代に発表した全177曲のストリーミング配信がスタートした。邦楽史に燦然と輝く名盤「A LONG VACATION」が1981年3月21日発売ということもあり、発売40周年を記念しての発表となる。
大滝詠一の曲は聴きたくても手軽に聴けないことがネックだったので、このサブスク解禁は個人的にもめちゃくちゃ嬉しい。
さて「A LONG VACATION」の一番の有名曲といえばリードシングルにもなった「君は天然色」だろう。
イントロからアウトロまで終始一貫して続く多幸感溢れるメロディ。このキャッチーさからもう何十年もCMやドラマで起用されている所を耳にする。しかし楽曲のカラフルなイメージと「君は天然色」というタイトルにつられて明るいことを歌っていると思いがちだが、実はこの曲、よく見ると歌詞がめちゃくちゃ暗い。
上の歌詞を見てもらえばいかに暗いかが分かると思う。例えば歌詞の序盤、主人公はポラロイド写真に映る君の表情から、別れを読み取って過去を恋しがる。長電話した時に触れた君のささやきを思い出し、ついに最後は夢の中、渚をディンキーで滑る君と出会い、その小指に煌く虹の幻を見る。
続くサビはこんな風に歌われる。
想い出はモノクローム 色を点けてくれ
もう一度そばに来て はなやいで
美しの Color Girl
そう、実はこの曲は「美しのColor Girl」を失った男の別れの曲なのだ。
この歌詞を書いたのは元はっぴいえんどのドラマー、松本隆。松田聖子の「赤いスイートピー」や寺尾聰の「ルビーの指環」、近年で言えば「星間飛行」など数多くの名曲を手掛けた大御所中の大御所だ。何故松本隆はひたすらに美しく明るい曲にこのような歌詞をつけたのだろう。
そこには「君は天然色」には執筆に至るまでのバックグラウンドとなるエピソードがあるからだ。
この曲を書いた時は松本氏が31歳の時。当時松本隆には仲が良かった妹がいた。しかし妹は昔から病弱で、26歳の時に病気で亡くなってしまう。折しもその時期、大滝詠一は「A LONG VACATION」の制作の真っ只中。アルバムの他の楽曲群と同じく、この曲についても松本隆に歌詞を頼もうとしていたのだが、最愛の妹を亡くし絶望の淵にいた松本氏はその申し出を断り、別の作詞家をあたるよう薦める。
しかし大滝詠一はこの曲は君の詞で無いと駄目だから書けるようになるまで待つと答え、実際にアルバムの発売を半年も延期させてまで歌詞を待った。
その時期、氏は街を歩いても風景の色が失って見えたのだという。そしてそんな自分の現実を「何色でもいいから染めてほしい」という願いを込めて、長い休養期間を経て「君は天然色」を書くに至ったのだ。つまりこの曲は恋人の別れを歌った歌であると同時に、自身の妹への鎮魂歌でもあるのだ。
それを踏まえた上で「君は天然色」というタイトルを見ると、この言葉に込められた氏の深い愛情と絶望が伝わってくる。実は楽曲の本文中に「君は天然色」というワードは一度も出てこないのだが、代わりにサビの最後で「美しのColor Girl」という表現が登場する。
一聴するとこの言葉が「君は天然色」の一種の言い換えのように聞こえるが、それは厳密には違う。何故なら、この「美しい」や「Color」というのは、あくまで「Girl」に対する形容表現でしか無いからだ。
対して「君は天然色」のタイトルにおける「君」は、「天然色」という言葉で定義されているように見える。この「形容表現」と「定義」の違いは大きい。
何故なら、形容表現は言葉を尽くせば対象をより克明に描写する(=距離を近づける)ことが出来るが、定義の場合、その言葉以外への代替が不可能だからだ。別のモノや言葉で置き換えようとした瞬間、その時点で対象そのものでは無くなってしまうことを意味する。
では、「君」の定義となった「天然色」とは一体どういう意味なのか。
天然色、それは物が自然に備えているままの色、自然の色彩という意味である。
つまり「君は天然色」とは、君自身だけが備える色を持たなければ、それは君では無い、と言い換えることが出来るタイトルなのだ。
それを踏まえて歌詞中のポラロイド写真や夢の中で出会う君の姿を考えると、それは果てしない絶望のシーンに見えてくる。
例えどんなに鮮明に映った写真や美しい夢を見ても、その色は君の天然色では無い。そしてその色を唯一持っていた君は、もうすでに失われてしまったのだ。タイトル以外で「君は天然色」という言葉が出てこない点についても、本文中の作り物の思い出しか手繰れない、モノクロームの現実との絶対的な距離を感じずにはいられない。
そういえば、歌詞をよく読んで一つ気になった点がある。松本隆は絶望の中で風景がモノクロームに見えると言っていたが、であれば歌詞の「想い出はモノクローム」は少し奇妙な表現では無いだろうか。
何故なら、想い出は風景=今と対比関係にあるのだから、普通ならモノクロではなく極彩色などといった表現で形容するのが順当ではないだろうか。
事実、一番のサビに入る直前で「過ぎ去った過去 しゃくだけど今より眩しい」と今との対比で過去を眩しいものと表現している。
しかしむしろ、ここで想い出とするところに、しっかりと今を見つめられない主人公の心情が生々しく現れているようにも感じる。
主人公はモノクロの街を見て、その現実に耐えられず君との想い出を引き寄せることで必死に色をつけようとしているのだ。しかしその想い出すら「本当の君」では無い。だから想い出すらもモノクロになってしまうし、思い出そうと君に近づけば近づくほど「色褪せた記憶」であることが克明になっていく。
過去が眩しい、というのはあくまで今との形式的な比較であって、そこではまだ具体的な思い出を想起しているわけでは無い。しかしいざ想い出にすがろうとすると、現れる「天然色」では無い君に絶望し、本当の色をつけてくれ、もう一度そばに来てくれ、と懇願するのだ。
こうして見ていくと、この曲には本当の君が持つ天然色が徹底的に登場しないことがわかる。にも関わらずどこまでも歌詞がどこまでも鮮やかに見えるのは、喪失の絶望や悲しみをこそ鮮明に描くことで、まるで輪郭をなぞるようにしてもうそこに無い色彩が浮かび上がってくるように感じるからだろう。
「君は天然色」の最も多幸感のあるパートといえば、忙しなく三連符でメジャーコードをかき鳴らし、大滝詠一が高らかに歌いあげるサビの部分だろう。
しかしその輝きの正体は、めぐりゆく絶望の中でもがき苦しむ主人公が幻視した、もう決して届かない「君」のいる情景の残酷な色彩なのかもしれない。
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