パートナーという落とし穴
助産師の妻が悪阻で5回の入院
3年前、妻のお腹に娘が逢いにきてくれた。私と妻にとって初めての妊娠。思ったより、緊張とか不安とかはなかった。その理由は、妻が「助産師」だったからだと言って、間違いないと思う。
しかし、妊娠が判明してから、数週間後、すべてが一変した。
その原因は、入院だった。妻は「悪阻」がかなり重かった。妻は「助産師」だから、大丈夫と安心していたからこそ、助産師の妻が苦しみ、パニックになるのを見て、想像以上の不安に襲われ、支えてあげなければならないはずの私も一緒にパニックになった。
娘が産まれるまで、妻は、5回の入退院を繰り返した。日々痩せこけていき、さらに助産師としての責任感もあってか、自分を責めることも増えていった。心と身体が悪くなっていく妻をみて、「妻が助産師だから大丈夫」と、余裕ぶっていた「私」は、不安と恐怖の「私」に変わっていった。今、思えば、私は、「出産」=「妻」と思いこんでいたことに気づいた。いや、おそらく妻もそう思っていたのだと思う。というより、おそらくほとんどの方々がそう思っていたのではないか?しかし、この思いこみが、私たちにとって大きな、落とし穴だったと気づいたのだった。
そんな私たち夫婦と、娘の3人が、乗り越えていく中で経験した、「キセキ」をこれからお話しさせてもらえたらと思っています。
悪阻からはじまる「キセキ」
2018に夫婦になり、2019年「Happy With You」(共に幸せを創る)という「夫婦のあいことば」を妻と一緒に考え、結婚式を創った。夫婦のあいことばとは、言い換えれば、夫婦理念みたいなもの。この日から、私たちは、とにかく「一緒に育みあう」ことを誓った。そして、ただの誓いで終わらせることのないように、とにかく、「共に」を意識して、いろんなことを実際に行って、経験し育みあってきた。結婚から1年、妻のお腹の中に、私たちの子どもが逢いにきてくれた。そして、はじめて、「一緒に育みあう」への壁が立ちはだかった。
その壁とは、「悪阻」である。
「悪阻を一緒に育むってどうゆうこと?」
これが、私たち夫婦への最初の問いだった。そもそも、悪阻は、奥さんがするものであり、私が一緒に育むなんてできない?
「悪阻は“一緒に育みあう”ことはできないってことか?」
何度も話し合ったが、なかなか答えがでなかった。それまで、他にもいろいろと「一緒に育みあう」を意識して行ってきたからこそ、無力感を感じ、正直、落ちこんだ。
2020.10.21、妻と一緒に母子手帳を貰いに行った。この日も、歩きながら、どうやって、一緒に「悪阻」を育みあうかを話していたが、答えは平行線。そして、母子手帳を貰ってから、妻の体調が悪くなり、近くのカフェで休むことにした。体調がよくないのか、何度かトイレに駆け込んで吐いたりしていた。辛そうな妻をみて、心配になった。そんな辛そうな中、妻は、母子手帳を見ながら微笑んでいた。その姿を見て
はっとした。
もし、自分だったら、どうなんだろう?こんなに辛そうなのに、母子手帳をみて、微笑むことができるだろうか?単純に、すごいな~と感心もした。関心?尊敬のが近いかもしれない。その時、突然、ある想いが降りてきた
「こうゆうことを生まれてく子どもに伝えてあげたい」
だった。そして、この日から、毎日、産まれてくる我が子に向けての手紙というイメージで、Blogを書くことを宣言した。これまでの人生で、毎日何かを書くとか、日記なんて続いたこともない。でも、これなら、「悪阻」を一緒に経験することはできないけれど、”一緒に育みあう”ことはできるとわくわくした。そのためには、毎日、妻を見て、感じて、いろいろ聞くことをしなければ、書けない。一緒に、妻の悪阻を知って、感じる。そして、その状況や言葉や何が起きたのか、妻の想いとかをありのままに。いつか、我が子に読んでもらう手紙というカタチで育みあう。それから、200日以上、私は毎日、手紙というBlogを書いた。書いたというより、妻と一緒に育みあうことができた。本当にそう実感している。そして、このBlogを書き始めてから、私たち夫婦、家族にいろんなキセキが起きた。
クリスマスのキセキ
Blogを書き始めて2週間くらいして、妻が悪阻で入院。一度退院するも12月に再入院。1週間後は家族3人でのはじめてのクリスマスだったが、おそらくクリスマスは一緒にいられないとのことだった。
恥ずかしながら、悪阻で入院することがあると知ったのは、この時だった。それほど、妻が助産師というのもあって、任せきりというか、他人事だったのだと思う。しかし、10.21から私は、一緒に悪阻も育みあうと決意し、毎日、妻の様子や言葉などを手紙として書いてきた。だから、この入院は、他人事ではなく、多少、一緒に育みあえていた気がする。
コロナ禍の入院中だったので面会はできなかった。それも、一緒に育みあうと意識して行動へと変えていった。毎日、朝、ウォーキングをして、妻の病院の前を通る。そして、病院の目の前に着いたら、テレビ電話をする。病院には入れないが、面会はできる。歩いている時も、出来るかぎり、電話で話したりした。その電話で、こんなことを言った。
「ちゃんと一緒に育もうとしてる?」
「一人で乗り越えようとしてない?」
このなんとなくした会話の中で、妻は、はっとしたらしい。一緒に育みあっていたつもりが、「自分がなんとかしなくてはいけない」と、一人で頑張ろうとしてしまっていたことに気づいたらしい。助産師・母という意識が「一緒に育みあう」という想いを邪魔していたようだ。
しかし、この何気ない会話
「一緒に育もうとしてる?」
を聞いて、自分の中の意識が変化できたのを感じたらしい。そして、なんと、その数日後の12/22に退院が決まった。私たちは、家族みんなで、3人でのクリスマスを育みあうことができた。
「一緒に育みあう」この意識が、「キセキ」を起こしたと、私たち家族は、今でもそう確信している。ちなみに、その時の、妻がイメージした意識を、この会話と前と後に分けて、後日絵にしてもらった。
退院して、しばらくしてから描いてもらったが、見た瞬間、私は爆笑した。きっと、お腹の中も子も一緒に爆笑だったと思う。そりゃー苦しいよ。
胎内対話というキセキ
クリスマスに退院してから、少し、悪阻がよくなっていったが、完全によくなったわけでは、もちろんなかった。そこで、この妻がイメージしていた絵をリビングに貼って
「今日もみんなで一緒に歩んで育み合いましょう!」
と、お腹に手を当てて、毎日、朝礼みたいのをすることにした。ちゃんと絵を見ながら一緒に唱和する。じゃないと、すぐに、この意識を忘れて、一人でなんとかしようとしてしまうから。そして、あることが判明した。
妻は相当、相当、相当、頑固だということ(笑)
クリスマスにキセキ的に退院できたのも束の間、1か月後に、なんと3回目の入院が決まった。それでも、電話やラインなどを使って、毎日のように、「一緒に育もう」って、やってきた。そのおかげかは分からないが、ピークの時以上にひどくなることはなく、3回目の入院は1週間ほどで退院できた。しかし、妻は、やっぱり助産師というのもあって、自分がなんとかしなきゃという想いが強かったのだと思う。言い方を変えると、そう、頑固なのだ。それは妻自身、自覚していた。さらに、妻が、自分のお母さんも、めっちゃ頑固だと言っていた。
そんな、血の繋がりを感じはじめ、私と妻は、お腹の中の子の名前をどうするかを話すようになっていた。本を買ってみたり、お互いの両親に聞いてみたり。いろいろ話し合った。お腹の中に、我が子が逢いに来てくれてことで、「名前」が、ただの呼び名ではなく、思っている以上に深く、「大切なもの」なんだなと、感じた。そして、ある本を読んでいた時に、こんな言葉が飛び込んできた。
「名前は最初にあげるプレゼント」
確かに、そうだよね。私と妻が、お腹の子にあげる、初めてのプレゼント。いい言葉だな。と感じた。あらためて、「名前」の深さ、大切を二人でかみしてた。しかし、その反面、私たちの心の奥底で、なんだか「もやもや」するものがあることを、私も妻も確かに感じた。それは、毎日、一緒に唱和してきた
「一緒に育もう」
という言葉に答えがあると気づいた。「一緒に育みあおう」って言い続けてきたことが、いつのまにか、私たちの血となり、肉となっていたのだと思う。
「一緒に育もう」と「贈り物」がしっくりこなかったのだ。
これが、良いとか悪いとかでは、本当になくて、ただただ、本当に、なんか気持ち悪いというか、しっくりこなかった。一緒に育もうって言ってるのに、「あげる」ってのが気持ち悪かったのだと思う。何度も言うけど、それが悪いとか良いとかではない。たぶん、「ルーティン」みたいなものだと思う。そこで、
お腹の中の子と妻と私で一緒に名前を考えることはできないか?
と話し合うことになった。昔の、私なら、まず、笑いながら、バカにさえしていたかもしれない。「お腹の中の子と一緒に名前を決める?コントじゃん!?」などと言っていたと思う。しかし、妻は助産師として歩んできていて、「胎内記憶」が身近にあったこともあってか、結構、ありのままに受け入れていた。そこで、そんな妻が言った。
「じゃー聞いてみよ」
どうやって?と、少し思った気もするが、なんとなく「そうだね」と答えた。すると、妻が「なんとなく、響きで、こんなのいいなって名前ある?」と聞いてきた。そこで、お互い、なんとなく、響きのいい名前を持ち寄って、何個かに絞って、お腹の中に問いかけることにした。
そうは言っても、正直なところ、さすがに「無理」だろうなと、私たちも思っていたし、ちょっとした、「遊び」みたいな感じだった。
「気に入った名前があったら、お腹蹴ってね」
お腹を触りながら、そう言って、3つの名前を読み上げた。すると、なんと、3つの名前のうち、一つの名前でお腹を蹴った。
「いやいや、たまたまでしょ!?」
もう一度順番を変えて聞いてみた。なんと、また同じ名前で蹴った。さらにもう一度。
なんと、3回とも同じ名前でお腹を蹴ったのだ。
この時のことを、どう言葉にしていいか分からない。「驚き」と「感動」としか表現できないのが悔しい。私たちは、「胎内対話」をしたのだ。そして、お腹の中の子と一緒に名前を決めた。この時の情動を、どう言葉で表現しても、したりないというか、しきれないというか。なんと言っていいのかわからない。ほんとうに最高だった。
私たちは、またしても「一緒に育みあう」という意識が起こした、「キセキ」の予感を感じていた。
本当に、この名前でいいのか?こんなノリというか、遊びというか、簡単に決めていいのか?と、頭をよぎることが、全くなかったかというと嘘になる。しかし、それ以上に、「お腹の中の子が決めたんだから、いいね」という想いの方が強かった。それから、これまで「君」とか「お腹の中の子」と呼んでいたのが、みんなで決めた「なぎ」に変わった。それから、なんの違和感もなく2か月が経ち、「なぎ」の漢字を決めることにした。
本格的に、画数などを調べて、「なぎ」の漢字を2つに絞った。そして、それぞれの漢字の想いなどを説明して、お腹に手を当てて聞いてみた。前回とは違い、「キセキ」を予感しているからこそ、期待もあった。
しかし、今回は、どちらにもお腹を蹴ってはくれなかった。予感は落胆に変わろうとしていた。やっぱり、この前のは、「キセキ」というより「偶然」だった。「そりゃーそうだよ。さすがに無理でしょ」と、妻と励まし合った。それでも、やっぱり、前回感じたあの「キセキ」が嘘だったとは思えなかった。そこで、もう一度、お腹に手を当てて、聞いてみた。
「どっちもイヤ!もう一回考えて!って思うならお腹を蹴ってみて」
妻と二人で、画数を知らべ、「なぎ」の漢字の画数で良いのが、この二つしかないと思っていた。つまり、この最後の質問には、落胆と可能性を込めらていた。落胆と可能性という、真逆の感情を押し殺しながら、妻のお腹に手を当てて、聞いてみた。
「蹴った!」「今、蹴ったよね?」「うん。」
驚きと感動と喜びと不安、いろんな感情が入り混じった状態で、二人は笑い合った。
ただ、正直、もう一回考えてって言われても、結構探したので、ないのではないか?という不安もあった。さらに、今、思えばだが、きっと、この言葉を妻に言われていたら、私はきっと、むっとしていたと思う。でも、自然と、この子が言うなら仕方ない。もう一回探してみようと心の中で素直に想えていた。というより、むしろ、わくわくしていた。
その後、妻と一緒に、前回の二つと画数は同じ「なぎ」の漢字を改めて探した。そしたら、2つも見つかった。探したつもり。
「絶対なんてないよ!お父さん!」
そう、なぎに言われた気がした。そして、翌日、その2つを追加して、4つの漢字を改めて、お腹に見えるように、紙に書いて壁に貼って、一つ一つ、真剣にプレゼンをした。そして、
「この中で、これがいいって漢字一つだけに、お腹を蹴ってね」
とお願いをした、その結果、、、なんと、一つの漢字にお腹を蹴った。しかも2回。鳥肌がたった。驚きと感動と嬉しさが一緒にあふれ出した。もう、不安も疑いもない。この時、「キセキ」の予感が確信に変わった。私たちはお腹の中の子「永季」と対話した。一緒に名前を考えた。本当に「一緒に生きる」「一緒に育みあう」ということを経験を通して実感した。
その時、動画も撮ったので、よかったら見てください。
破水とキセキ
実は、漢字が決まるまでに2回の入院をしていた。とにかく、そんな中、毎日のように、「一緒に育もう」って、意識して実践してきた。悪阻で入院をすることがあることさえ、知らなかった私。まさか、5度の入院になるとは思いもしなかった。ほんとうに、書ききれないほど、いろんなことがあった、いろんなことを想い、いろんなことを感じた。
10.21から、予定日を逆算して、217日からのカウントダウン。毎日、Blogと言う手紙に、1日ずつ日数を減らしながら、言葉にしてきた。そして、ついにあと7日になった日の健診。妻は、
「もう、いつ産まれてきてもいいんだけどね」
「もしかしたら、カウントダウンしてるから気を使ってるかも」
と言い出した。その時、また
「一緒に育もう」
が頭をよぎった。一緒に育みもうって言ってるのに、「この日が君の誕生日だ!」って決めつけてしまっているような気がして、もやもやした。だから、その日のBlogにも、「気にしなくていいよ」って書いた。さらに、次の日、直接、お腹に言った。
「一緒に育みあっているんだから、カウントダウンなんて気にしなくていいんだからね!」
「これからも、一緒に育みあっていくことが大事なんだよ」
と。笑いながら、妻とそんなやり取りをした。その数時間後、なんと、妻が破水した。
「えええええええええええええ」
「破水って?どうしたらいいの~?」
正直、テンパっていた私。冷静を装いながら、妻を見ると冷静だった。そして、私も冷静になれた。そして、改めて
「本当に、気を使ってたの?」
「ほんと、ごめ~ん」
「早く言ってあげればよかった~」
と、お腹の中の子と対話した。そして、驚きと感動で溢れていることに気づいた。そんな中、さすがの助産師。冷静に病院に連絡し、病院へ。
それから、すぐに、娘が生まれた。またしても、「一緒に育みあう」という意識が、「キセキ」を起こした。そして、きっと、娘も頑固なんだろうということが判明した。頑なに、私のカウントダウンを守ろうとしてくれていた。そうゆう意味では、なぎは、一緒に育もうとしてくれていたのかもしれない。私たちは、なぎが産まれる日も、一緒に対話し、一緒に決めた。本当に、言葉では、うまく表現できないが、それは、紛れまない「キセキ」だった。
「キセキ」という嘘
私たち家族が経験した、「キセキ」。ここに書いた以外にも、たくさんの「キセキ」を経験させてもらった。すべてを、ここに書くことは難しいので、わかりやすく、より心が動いたと記憶しているものを書いた。
「一緒に育みあう」
結婚式にみんなと誓い、ずっと、妻と子供と両親や兄弟や仲間と、このことを意識して、実際に行って、考えて、行って、考えてを繰り返してきた。その結果、多くの「キセキ」を経験した。これまで生きてきた、信じられないことやありえないと思うことを実際に何度も経験し、「驚き」「感動」「喜び」いろんな感情が沸き起こった。そして、この経験が、今の私たち家族の「笑顔」の源になっていると確信している。残念なことに、きっと、言葉ではすべては伝わらないだろう。実際に経験した人にしか、すべてを感じることができないのだと思う。だからこそ、心から想うことは、
ぜひ、体験・経験してみてほしい。
そして、この経験を経て、気づいたことがある。それは、
「キセキ」という嘘だ。
おそらく、これこそ、経験しないと、ちゃんと伝わらないと思う。どうゆうことかというと。
これまで「キセキ」と思ってたことは、「キセキ」なんかではない。
ということ。「一緒に育みあう」と決めて、実際に「共に」を意識して、生きるだけで、沢山の「キセキ」が起きた。それって、「キセキ」なのか?そう思うようになった。これまで、ずっと、この「共に」とか「一緒に」ってやつを、言葉としてだけ理解してただけで、実際に、「共に」「一緒に」を行ってみたら、これまでは、ありえないと思っていたことが、実際に起きたということ。
超、簡単にいえば
「共に」とか「一緒に」とか言いながら、どこか「私」を優先してきた。
ということだと思う。これが悪いとか良いとかではなくて、それが当たり前の生き方だと思っていた。まずは自分。自分が幸せでなければ、相手を幸せにできない。それが当たり前だと思っていた。
でも、それは違った。本当の感動や喜びや幸せは、本気で「共に」
「一緒に」生きようと歩んだ後に起こったのだ。それを、今まで、「キセキ」という言葉で見えないようにしてきたのかもしれない。これまで、「キセキ」と思っていたことは、「一緒に育みあう」ということで、日常になる。「キセキ」という言葉が、「キセキ」を遠ざけていたのかもしれない。そんなことを私たち家族は感じています。
「パートナー」「パートナーシップ」
そこで、私たちは、
「パートナー」
「パートナーシップ」
というやつが、実は大きな“落とし穴”だったのかもしれないと感じている。夫のパートナーの妻。妻のパートナーの夫。当たり前に分けてきたパートナー。私とあなた。これが私のすること、あなたのすること。一緒に協力しあうことが夫婦。そう、思いこんできた。
ただただ、「一緒に育みあう」ことをやってきて気づいたこと。夫婦は、「私」と「あなた」ではなく、「私たち」。分けることのない、私たち。
一緒に育みあって、共に超えて生きていく。
「私」と「あなた」ではなく、「私たち」として生きていくことで、日常が「キセキ」になる。「キセキ」が当たり前の日常になる。
私たちは、パートナーという意識を超えて、「一緒に育みあう」という生き方を歩んでみた。その歩いてきた「軌跡」が、「奇跡」を教えてくれた。そして、「キセキ」が当たり前の日常という生き方に気づいた。これからも、そんな生き方をしたい。そして、そんな生き方が、未来の当たり前になったらと思うと、心が暖かくなってくる。さらに、「わくわく」する。
私たち家族は、この生き方を文化にしていくことを目指しています。
みんなで一緒に、パートナーを超えた生き方を文化にしませんか?
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