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「暗夜行路」解読2・竜岡と阪口【志賀直哉】

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B1冒頭、時任謙作は怒っています。作家仲間の阪口が自分のことを作品に悪く書いたからです。固有名詞は出していませんが、描かれている人物はどう考えても自分のことです。実に下劣な人間です。プンプン怒っていると友人が二人来ます。その阪口本人と、エンジニアの竜岡です。竜岡は飛行機エンジンの開発が専門で、近く洋行する予定です。エンジニア竜岡は「小説に自分のことを書いたな」と阪口本人に向かって文句を言っています。怒りのあまり阪口を謙作宅まで引っ張ってきたのです。謙作とまるで同じ状況です。

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ところで竜岡とは誰でしょう、本当に友人でしょうか。実は謙作の父は本郷竜岡町に住んでいます。竜岡の専門は飛行機ですが、謙作の父も昔事業で鉄道を引いていました。テクノロジー系です。竜岡は「自分のことを小説に書いた」と怒っていますが、謙作の父も「家のことは小説に書くな」とかうるさいです。プライバシー系です。竜岡はこれから洋行予定ですが、謙作の父も洋行経験があります。エリート系です。つまり竜岡とは謙作の父なのです。

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では阪口はだれでしょう。阪口は小柄です。奥目です。少々下品です。放蕩者です。ゲームが好きです。これらは全て祖父の属性です。つまり阪口は祖父です。阪口は意外にも他の人に謙作の小説を勧めたりします。謙作は阪口が嫌いですが、阪口は謙作を非常に大事にしているのです。孫が可愛いのですね。

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謙作は竜岡と阪口と一緒に吉原に行き始めますが、正体は祖父と父との女遊びです。親子三代で吉原行きです。遊び好きの一族です。

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たまたま来た登喜子という芸者を、謙作は少し好きになります。竜岡も少し好きになります。竜岡に相談すると、「俺は洋行するから譲る」と言われます。つまり謙作の父が祖父のような事故を起こさなかったのは、単に洋行していたからです。そして祖父が謙作の母と間違いを犯したのは、単に洋行しなかったからです。以上まとめますとヘヴィーな女性蹂躙系の一族です。実は謙作の兄の時任信行もなぜか登喜子のことを知っています。あれはいい芸者だと褒めます。油断も隙もない家系です。志賀直哉はこういう奇抜な設定を物語の冒頭に入れてくるのですから大した力量ですね。もっとも実際読むと地味で陰気でそれほど楽しくないのですが。

作者はドストエフスキーの「罪と罰」はしっかり読んだようなので、そこからキャラ設定戦略引っ張ってきた可能性が高いと思います。全容は読めていない感じですが、部分的には究明に成功したようです。大正時代なのに、凄い読解力です。

やがて謙作は夢を見ます。夢の中で宮本という友人が出てきて言います。「阪口は放蕩の挙げ句に性的秘技・播磨を実行して失敗、あえなく死亡した」と。「播磨」という秘技の内容が非常に気になりますが、作者のでっちあげだそうで実態はありません。要するに放蕩極まって死んだと。

その後夢の中で廊下に出ると、庭で影を見ます。屋根の上で踊っている子供くらいの小さな魔物の影です。月光に照らされて影が踊っているのが見えるのです。淫蕩な精神を表しているようです。

この作品で屋根の上にのぼる子供は時任謙作本人しか居ませんから、この魔物は謙作自身です。阪口=祖父から受け継いできた放蕩遺伝子はやはり魔物だったのです。

しかし別に男性ばかりが悪いというわけでもありません。「暗夜行路」には「蝮のお政(まさ)」という恐ろしげな女性も出てきます。罪を犯して刑務所入っていましたが、出所して罪の懺悔の朗読で興行している人です。見世物小屋キャラです。昔の見世物小屋といえば「親の因果が子に報い」というフレーズとともに蛇女の登場が定番ですから、「蝮のお政」はネーミングとしては良いですね。しかし「懺悔を興行する」、つまり日々懺悔の言葉を語り続けるというのは、本当の反省にはなっていないのではないかと謙作は少々疑問に思います。

蛇の女性といえば、大山への旅の途中で聞いた「多鯰ケ池(タネガイケ)」の伝説もあります。お種という娘が大蛇になってその池に住んでいたが、あるとき侍を追いかけ、侍が家へ逃げ込んだのを悔しがり、自分の鱗を三枚門の扉に貼り付けて帰ります。安珍清姫系の話です。色欲炸裂の謙作一族の女性バージョンとも言えます。

蛇つながりでは彫刻も出てきます。大山にゆく途中で見る左甚五郎の龍です。見ていると雨が降ってきます。さすがは龍です。水を呼びます。

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と、バラバラな話が続きましたがこれは本題への伏線です。話題はA2、大山での体験の最後に飛びます。

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大山登山で体調を崩した謙作は寝込み、自分の足が自分を離れて遠ざかる夢を見ます。ここが作中最も意味不明な場所です。足は遠ざかりますがまた近づいてきます。足音がうるさいので居なくなれば良いと思うのですが、結局自分の足を消してしまうことはできません。
これまでの経過で意味はおわかりになると思います。出雲近辺での出来事ですから、ヤマタノオロチとスサノオの謙作内部での戦いです。足がなくなるとはオロチになるということ、そうなりきらなかったのは結局スサノオが勝ったということです。最後に謙作はスサノオになれたのです。
竜岡というのは、文字通り竜の岡だったのです。時任一族はヤマタノオロチ一族だったのです。色欲の赴くまま娘を食って生きてきました。阪口は岡に登る坂の入り口だと思われます。足の夢で謙作が克服したのは、自分自身の悩みというより一族の宿命です。

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さてA1に歯の隙間から口の中に羊羹がニュルニュル入り込む描写があり、A2ではそれの対として下痢を止めて登山という描写があります。その意味するところはなにか。歯の隙間から出入りするのですから、蛇の舌を暗示していると思われます。チラチラと欲望がうごめく蛇の舌。なかなか奇抜ではある比喩なんですが、地味というか小さいですね。

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しかしともかくも仁徳天皇までさかのぼり、スサノオまで遡ったわけです。スサノオは神ですから、前回書いたように「直子が来ていることを見てもいないのに気づく」ことが出来ても不思議はありません。

次回に続く。

追記

主人公が龍、蛇属という設定は、はっきり夏目漱石の「それから」を継承しています。


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