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国語教育について

が話題になっている。こういう議論は到着点から逆算しないと意味がない。この場合の到着点とは努力によってどうなるというポイントではななく、紆余曲折ありながら社会としてどうなるという点を予測して、無理なくそこに合わせてゆくという意味での到着点である。

1、日本語は原則横書きになる
2、デバイスはスマホやPCが主力、紙は補助的なものになる
3、日本語文章の中にアルファベット、ひらがな、漢字が共存するスタイルになる
4、カタカナはアルファベット使用に反比例して減少してゆく。最終的には滅亡もやむなし。

では教育はどうなるか。

サークル1

1、言語の多義性をまず教える(数字の一義性と対比させて)
2、一義的言語訓練を充実させる方向は正しい、ただしかならずベン図などの図表つきで教える。
3、多義的言語はまずは古文漢文から。文法は教えず、少量を弾圧注入丸暗記で時間短縮する。
4、それらの総合として小説がある。富嶽百景あるいは走れメロスあたりを章立て表つきで少量教える。
5、同時に文化的共通理解のための詩歌(啄木、晶子)を暗記はOK。くどくど説明せず、古文と同じく弾圧注入でよし。

残念だが当面はこれしかできない。なぜならば高校の国語教師が文芸作品を十分に扱えると到底思えないからである。高校の国語教師が扱えるようになるには、大学の文学部の先生方を総入れ替えしなければいけない。このあたり経済学と事情が似通っている。

現状でも文学作品を最後まで読めるのは少数である。読める一部のエリートが「文学教育がなくなるのはダメだ」と怒っている。でも冷静に考えてほしい。そもそもあなたの周りの人も、あなたほどは「読めていない」はずである。そしてあなたが小説を読めるようになったのは、教育のおかげも5%程度あるかもしれないが、95%は親と自分自身の努力であるはずである。現状でも文学教育は成功はしていないのである。かといって致命的に失敗しているのではなく、あまりよくないレベルではあるが、矛盾が年々肥大化している状況である。現在できることは矛盾を抑えることだけである。

そして文学作品の本格的鑑賞は、残念ながら永遠に一部の人のものである。多くの文学ファンは自分の特異な読書力を認識せずに、一般の読書力のなさを嘆く。しかし大多数は読めない。未来永劫読めない。



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