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見るだけで「死物」

黒井さんの批評に答えての記事・第二弾です。

前回はこちらです。

北大路魯山人が小林秀雄宅でいい鉄瓶があるのを発見しました。素晴らしかったので譲ってくれと交渉、小林は買ったばかりだからとしぶります。そこを押し切って魯山人は自宅に持って帰ります。
その後小林が魯山人宅にゆくと、譲った鉄瓶がゴミのように転がっています。当然小林は怒りました。あとで魯山人笑っていわく、
「一晩かけてじっくり見たから、あれはもう死物だよ」

なんか無茶苦茶な話なのですが、意味が分かってしまうのがなさけない。良いデザインの鉄瓶だったので、是非とも勉強したいと思った魯山人、本当にじっくり鑑賞して、良いところを自分が全部吸収した。「吸収した以上良いところは残っていない」とつい考えてしまうのが、彼の前近代人というかほとんど動物のところでして、いくら見ても鉄瓶の物理的形態、特徴はなにひとつ変化していませんから、理屈に合わない戯言なのですが、彼の「良いものを吸収しよう」という態度は本物なんですね。吸収というのが文字通り鉄瓶に口を付けて精を吸い上げるイメージなのです。

作品の理解というのは往々にしてこういうものだと考えます。逆さに振っても鼻血も出ないところまで血を吸い上げる。干物になって作品は、ようやく成仏できる。食い物もそうでして、腸も骨も食べてあげると魚は成仏できる、とか言います。骨なんか消化しづらいですが、焼いて出汁を取るでも良いですから、できるだけ全部使ってあげる、つまりできるだけ全部自分の体内に吸収してあげるのが、古い言葉遣いですが、礼儀だろうと思います。

だから、私は文学理論の本さほど読んでいませんので確かなことは言えませんが、作品を十分理解もせずに理屈をこねる人のメンタルが想像できない。礼儀をわきまえていないように見えます。完全に理解となるとそれは難しいですが、最低限なにを書いているかわかっていないまま議論が進行してゆくのは、異常だと思います。内容を読めていないのに小難しい言葉をこねくりまわす、それはよっぽど作品が、文学が嫌いなんだろうと思います。

では最低限なにが書かれているのかを理解するために、なにが出来るか。それが最善の方法かどうかはいざしらず、構成読みは一つのオプションにはなると思います。従来型の読みがタルく思えるところまでは一気に到達できますから。
「ニーベルングの指環作品群」に関しても、本来内部構成だけで読めれば最善だとも思っています。しかし「指環」を補助線にすることで、一気に読解が楽になる。それまで「闇の奥」も「ギャッツビー」も「地獄の黙示録」も「パルプ」も、満足に意味を取れていなかったと思うのです。「豊饒」もそうです。「クルツは声だった」「ウルフシャイムの歯の指環」「ワルキューレの騎行を使う意味」「アタッシュケースの中身」全部意味不明だった。タネを明かせば簡単ですが、構成読みせずにタネを発見するのはよほど才能に恵まれていなければ難しい。そしてコンラッド、フィッツジェラルド、コッポラ、タランティーノの読解力は強力ですね。ものすごく読める。彼らの凄さを認識出来たのも、大きな収穫でした。

彼らは捕食者です。先人の作品を読んだだけで理解し、精を吸い上げて、自分の体内に取り込んで、再生産をした。かなりきつい作業です。その感触を少し味わったことがあります。構成よみやってきて少し読解力が上がりかけてきた時ですが、読む時の集中力がそれまでと違うのですが、体が対応できていない。するとどうなるか。読むのが物凄くしんどくなるのです。数行読むだけで頭の中がグルグルして読み続けられない。でも変な興奮をしているので読むことをやめられない。読んでいるのか錯乱しているのかわからない状況に陥りました。疲れました。漱石なんか慢性的にそうだったと思います。それは死にます。私は一時だけだったので生存しております。死に至るきつさを緩和するには、脳みそ使用率を低下させるよりほかありませんで、それで肉体労働路線に走っているわけですが、そうせずに頭脳労働を続けた人々が、文豪と呼ばれています。私の場合、文豪と呼ばれることよりも生存が優先されますので。

長々と書きましたが、文芸というか芸術というか技術というか、もしかして文化全般は、所詮は捕食して自分の栄養にすることが最終地点でして、栄養化できると勝ち、できないと敗け、単純な原理で動いているというのが私の主張です。コミニュケーション・ツールの話はそれとは別と考えるべきでしょう。

長い割に、エゴの問題とか書けませんでしたので、それは次回にします。



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