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物語構成読み解き物語・20

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大昔、「富嶽百景」がロンドで書いてあると気づいて、ネット上で太宰研究者の大学の先生みつけて、メール出してみたことがあった。
「そうだね、偶然そうなっているかしれないね」というお返事であった。そんなもんである。これでトーマス・マンが「トーニオ・クレーガー」でソナタ形式使っている、とか情報添えていると、もっと説得力あったのであろう。当時は私も知らなかったから無理だった。その先生の固有名詞もはや覚えていない。仮に「偶然先生」と呼ぶ。偶然先生の説得は私には無理だと思ったからメールはそれっきりにしたが、だいたい大学の先生がどう考えるか見当はついたからありがたかった。

トニオのソナタ形式にしても、ネット上で情報はあるにはあったが、どこが第一主題が、どこが第二主題か、展開部はどこからどこまでか、なんの解説もなかった。ドイツ文学者もソナタとは気づいてもきっちり理解していなかったか、さもなくば外国からの情報を直輸入しただけで自分では考えられなかったのだろう。そりゃまずいでしょう。アバウトに判断して「富嶽百景」の説明に使ったが、

その後週休二日さんに詳細に解説してもらえた。

堀辰雄も「美しき村」で、第二章を「フーガで描いている」と言われている。どこがフーガなのかさっぱりわからない。フーガ風というだけであろうと思う。しかし全体構成から、「美しき村」が教会ソナタ、例えば無伴奏バイオリンソナタ第一番あたりを下敷きにしていることは類推できる。もっときっちり対応調べるべきなのだが、できていない。

文学は時間的芸術である。鑑賞にはどうしてもいくばくかの時間を費やす。費やした時間に応じて感動なり学習なりが得られると、よい作品ということになる。絵画は空間的芸術である。わかる人は見た瞬間にわかる。わからないと何時間見てもわからない。費やす時間とは関係がない。
時間を使う文学は、同じように時間を使う音楽と親和性が高い。というより詩はもともと音楽と隣接している。歌うものだからである。散文も調子を整えると詩的になる。言い換えれば音楽的になる。だから音楽民族ドイツ人が、音楽を書くつもりで文学書いても不思議はない。そして当時は文化輸入が文学者の一大ノルマだから、日本の小説家がマンの「音楽形式で小説書く」方法論を輸入して、自家生産しても不思議はない。不思議はないはずなのだが、偶然先生のような見解が主流なのは、

1、日本近代小説が輸入ジャンルであるという意識がない
2、太宰治の作品をより雰囲気的なものと見ている

ことが原因だろうと思う。もしもだが、トニオのきっちりした解析が十分流通していたら、偶然先生の太宰の読み方も変わったのだろう。私と違って太宰全集3回くらい読んでいるはずだから、トニオの一点さえわかれば全部見えただろうなとは思う。

音楽では例えば、交響曲の第1楽章は普通はソナタ形式である。偶然ソナタ形式になるってことはない。作曲家がソナタ形式の曲を書こうとして書いている。そこに懐疑の余地はない。また短歌は通常31文字である。偶然31文字近辺の文字数になるわけではなく、最初に57577という決まりがあって、それに当てはめて書いている。これまた懐疑の余地はない。鑑賞サイドもそのルールを把握して鑑賞するのが前提になっている。

文学作品も、形式は大事である。作家たちは色々凝ったことをする。やっかいなことに、他の人が作家たちの工夫が読めるとは限らない。「ソナタ形式」のようなわかりやすい定番構成を持たないからである。よって暗中模索して読み解いてゆく。

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定番形式を持つと主張する人々も居る。三幕構成というやつである。

ハリウッド映画の解析をしていると、なにしろ三幕構成で作られたものが多いから、そこを基本に解析するようになる。以前の例文を流用するならば、「太郎は起き上がった、太郎は走った、太郎はコケた」となる。動詞が最低限3種類は必要という態度である。それはそれで間違いではないと思うが、私は「太郎は走った、太郎はコケた」だけでも物語に含めてよいと思う。

いずれにせよ三幕構成で考える路線でも、物語を何個かのセクションにわけて分析する。そのセクションに分割されていることは、まごうことなき作者の意図である。そのセクション分割の仕方が、定番構成だけでもない、というのが私の立場で、三幕構成派とはそこが異なるのだが「作品には構成がある」という理解は共通している。偶然先生はそのことを考えたことが無かったのだろう。考えるべきだったと思う。今日の人も考えるべきだと思う。


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