見出し画像

作品構成についての研究2

前回はこちら

鏡像構成と

画像1

反復構成で

画像2

比較した場合、
鏡像構成は内面的ドラマになり、
反復構成は外交的、政治的になる。ということまでなんとなくわかったが、あくまでなんとなくでしかない。
ほかにどういう形式が文学に存在するのか、調査が進んでいないから、データーが不足しすぎている。手がかりが少ない。

今現在私が判別できる形式は、

普通の三幕構成:ABC
反復構成:ABCABC
鏡像構成:ABCBA

以下特例として

ロンド形式:ABACABA(富嶽百景)
ソナタ形式:AB(展開)AB(トニオ・クレーガー)
変奏:A、A1、A2、A3、A4、A5(クノー「文体練習」)

だが、この3つは文学の形式というより音楽の形式を文学に拡張したものである。文学が音楽の形式を取り入れた。というと音楽のほうが形式が豊富なように見えるし、確かに様々な形式があるのだが、音楽の形式の話は

実はメロディーの配置、扱いにだいたい集約される。例えばメロディー(クラシックでは主題と言われる)を単純に変えてゆけば変奏、2つのメロディーを対立させてゆけばソナタである。だが文学は異なる。

富嶽百景は土地、場所が主題になる。トニオは主人公の動きが主題になる。文体練習では文章がまるごと変奏のネタになる。つまり形式を形作る素材そのものがまちまちである。なんでそうなるか。

音楽のメロディーに該当するのは、文学ではだいたい「キャラ」である。ところがキャラはおそらくあんまり変化させてはいけない。以下に例文掲載する。

桃太郎はきびだんごを餌に猿鳥犬を手下に加えた。しかし桃太郎は与えたきびだんごが惜しくなった。強圧的にきびだんごを回収しようとした。当然手下は怒った。謀反が発生し、敗北した桃太郎は猿の支配権を承認、なんと猿の手下に成り下がった。桃太郎はメソメソ泣いて情けなかった。到底戦力になりそうもない桃太郎を捨てて猿一行は鬼ヶ島に渡った。桃太郎はヨタヨタと海岸まで行った。海岸にはイジメられている亀がいたので助けた。亀は感謝して桃太郎を鬼ヶ島に乗せていった。島では鬼と猿一行の戦闘中であった。若干猿が有利だったが、双方傷ついていた。桃太郎は俄然鬼の味方をした。猿一行は鬼桃太郎連合に破れた。しかし勝者の鬼も傷ついていた。敗けた猿一行は無論重傷を負って倒れ伏していた。桃太郎は悲惨な光景に衝撃を受けて回心した。即座に頭を丸めて僧形になった。念仏を唱えた。戦いの無益さ、欲望の罪深さを語った。しかし、鬼も猿一行も桃太郎の説教に不信の目を向けるだけだった。(終)

あまりにも変転極まりないキャラは、読者がキャラとして認識できなくなる。信用出来ないキャラとは認識できても、それ以上の認識はできなくなる。変転しすぎてキャラが無色になるのである。キャラは変化すると主張する漱石も、実際作中ではキャラをキャラとして成立させるための叙述に熱心で、さのみ変化しないし、変化させるとかなり不自然である(草枕の主人公二人を見よ)。
だから場所だの主人公の動きだのを主題にしなければならない。場所が重要、動きが重要というわけではなく、組み立てるのに使う要素が、キャラ以外ならばなんでもいい、という感触がある。漱石の「こころ」見てみよう。


画像3

右端の「導入、接近、Kについて、旅行、暗い過去、離脱」という流れが上下で共通しているだけであって、時間も語る人も語られる人も異なっている。もしも上下が別々の物語として存在していた場合、共通項目を見つけるのはほぼ無理である。が、同一物語に含まれる章であるし、共通点がいくつも見られるから区分けしてゆくと、だいたい同じ流れになっている、というだけである。
「こころ」の場合には西郷を暗示するために、K自殺と対になる部分に薩摩、血の色、犬を連れた人間、を描写する必要があった。だからこの組み立て方を採用している。キャラの登場場所は固定されている。上:先生と私、下:先生とKとの関係を読む私、である。キャラで考えるなら、

上:A+B

下:A+B+C

である。単純加算である。
その上で流れをリピートして形式を作っている。

ともかくも音楽のメロディーと文学のキャラではどうもかなり異なる、ことまで見当がついた。音楽はメロディーを反復、変容して組み立てるが、物語、文学はキャラは変容があまり効かない。だからキャラ以外をなんでもいいから利用して構成をつくってゆく。「こころ」の場合はキャラ加算と流れでの反復で構成を作っている。我ながら遅々たる思考の歩みである。

次回はこちら



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?