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物語構成読み解き物語・2

前回はこちら

ある文学好きの方と、前記「カラマーゾフ兄弟の読み解き」についてお話したことがある。その方はドストエフスキーを尊敬していて、私の人物表を評価してくださった。


「これは確かにあたっている。で、どっちなのか?」
「え?どっちとは?」
「作者は無意識にやったか、意識的にやったか」
「いやそれは当然意識的なはずで」
「それは俺とは考えが違う」

その方は、ドスト尊敬すること神のごとく、無意識にそういう人物構成組み立てていると感じていたようである。はっきり言えばドスト愛では私の負けである。実際問題ドストエフスキーのノートが出てこない限り、彼が戦略的にそれをやったという証明は不可能である。たまたまそうなった可能性を棄却できない。


後に書くが「闇の奥」でも「富嶽百景」でも似たような経験がある。私は作家が戦略的にそれをやったと考えているが、それをただの偶然と考えたい人もいる。ここが構成読み解きがいまいち広がらない最大の理由であると思う。なにやら天才が居て、天才は流れるがごとく自然に作品を書き、出来た作品は独特の構成を自然に備えている。いわば天才信仰のパターンである。

反論はある。同志の週休二日さんも言われていて、私も完全に賛成なのだが、重層性のある作品にはどうしても、不自然な点がでるのである。天才といえども完璧には処理できない。読むと、「あれ、ここだけ浮いているな」と感じられる。その点が構成解析のツボである。「カラマーゾフ」で言えば僧院での女性信者5人との会話である。物語の流れ上、ここはなくても良い。しかしドストが意味のないシーンを加えることは考えづらい。つまり表面的な物語とは別の、簡単には見えない裏の物語が進行しており、それがここで顔を出していると考えなければならないのである。

だから不自然さを感じれるかどうかが問題になるのだが、これが説明が難しい。不自然さはあくまでも、「作品全体の流れにおける不自然さ、違和感」である。シーンとして取り出して見ても不自然な描写は、文豪の名作であれはほとんどない。しかしストーリーの流れ的に微妙に違和感がある、そんなシーンは、しばしば存在する。何十回も読む、あるいは章立て表を作って何度も眺める、そうすると全体構成が頭に入る。入った後ではじめて、今言った「作品の中での不自然な点」が浮かび上がってくる。

前述のカラマーゾフの「ゾシマと5人の女性信者」は、まさにこれである。全体のストーリーの流れから、そこだけほんの少し浮いている。彼女たちはその後の物語の流れで回収されることもなく、なにかを暗示するためだけに登場する。当時の私はこんなふうに言語化できてなかったが、それをなんとなく感じて「カラマーゾフの兄弟」の読み解きはじめたのである。逆に言えば、カナの婚礼にせよ大審問官にせよ裁判にせよ、女性信者シーンよりは自然に物語の流れの中に入っているので、そこをポイントにして全体を解析することは、不可能ではないと思うが難易度が高い。

話戻っておそらくアンチ構成読み解きの方の説得には、トーマス・マンの「トニオ・クレーガー」が一番良いサンプルになると思う。「トニオ」はソナタ形式で書かれている。意識して書いているわけではない、というのは無理がありすぎる。私はアバウトにしか把握していなかったが、週休二日さんが詳細に解説している。

これを読んで「カラマーゾフの登場人物表は、偶然の産物だ」といい切れるなら、それはそれでいっぱしの人材ではある。

しかしドスト崇拝者とお話した当時は私も、ここまで詳細に理解できていなかったから、「カラマーゾフの人物戦略は、マンで言えばトニオのソナタ形式戦略に該当しますかね」と言えなかった。

「人間の頭の性能はさほど変わらないものだから、天才ドストエフスキーといえども意識的に戦略立てなければああいう名作作れませんよ」と、これまた雑な説明をしてその場をしのいだ。伝わったのかどうか自信がない。良い説明ではなかった。少し後悔している。


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