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「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」解説【押井守】

「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」は1995年公開のアニメ映画です。日本アニメの内容的頂点ともいえる傑作です。

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公開当初、評判は悪かったです。難解すぎたのです。かなりの映画通でも「中身がよく理解出来なかった」という人が多かったです。キネマ旬報などの雑誌でも、まったくあさってな方角の評論が頻出していました。理解できる人がほとんど居なかったもようです。客入りもガラガラでした。しかし内容が深いので評価はじわじわと上がり、続編も作られ、リメイクもされ、さらにハリウッドで実写版も作られます。簡単におさらいしましょう。

あらすじ紹介(ネタバレあり)

日本国外務省が米国でITの研究をしていました。外交上の利益のためにハッキングソフトのようなものを作ろうとしていました。ところが原初の海から生命が誕生したように、情報の海から人格を持ったエゴが誕生してしまいました。エゴのコードネームは5201、通称は「人形使い」です。

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製作者の統制が利かなくなった「人形使い」は勝手にハッキングを繰り返します。このままでは外交問題になります。あせった外務省は回収しようとして必死になりますが、「人形使い」はロボットの中にもぐりこんで、公安9課の草薙素子のところに逃げ込みます。実は「人形使い」は以前から偶然草薙を知って、ひそかに惚れていたのです。ソフトのくせに生意気ですね。

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その後ドンパチシーンあって、結局「人形使い」と草薙は結ばれます。両者は結合し、新しい人格が誕生します。新種の人類の誕生です。新しい人類は、高台から街を見下ろしながら、「どこに行こうかしら? ネットは広大だわ」とつぶやき、街に下りてゆきます。ツァラトウストラが山から下りていったように。

「人間」の定義の拡張

「人形使い」はただのソフトのバグとも言えます。でも本人は「私は生命体だ」と主張します。「政治的亡命を希望する」とか抜かしだします。手に負えません。

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魂を持っていれば人間と言えるかもしれません。でも「人形使い」もゴースト(劇中では魂の意味で使われる)を持っています。すくなくとも計測上はゴーストがある存在です。大脳はありません。でも人間的なふるまいをマスターしています。「人形使い」は人間なのでしょうか?

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劇中「人形使い」は言います。
「私を生命体ではなく、単なるプログラムというなら、それなら人間のDNAもプログラムに過ぎない。生命とは情報の流れの結節点だ。種としての生命は遺伝子という記憶システムを持ち、人はただ記憶によって個人たりえる。記憶が幻の同義語でも、人は記憶によって生きる。
コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなた方はもっと真剣に考えるべきだった」

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言い換えましょう
「私をただの情報というなら、DNAもただの情報だ。DNAは生命誕生の過去から引き継がれ、発展してきた情報だし、これからも発展してゆく。つまり生命とはDNA情報の生成発展のことである。電気情報が生成発展してできた私と、なんの違いがあろう。

種としてでだけではなく、個人についても同様のことが言える。個人個人といっても、所詮は過去の情報の集合である。その記憶が間違った記憶であっても、その記憶を頼りにその個体はおのれを個人として認識する。私は過去の情報を十分に収集した。私を個人と認めるのになんの不都合があろう。

つまり私はコンピューターソフトかもしれないが、同時に生命であり、人間であり、個人である。コンピューターによって大量の情報を自由に扱えるようになった瞬間から、人間の定義は拡張されるべきだったのだ」

彼と彼女の自己否定

劇中「人形使い」も草薙も、自己を否定するような言葉を吐きつづけます。

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「人形使い」は生殖ができません。
「私は不完全な生命体だ。子孫を残して、死を得るという生命の基本プロセスが存在しないからだ」

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草薙は体のほとんどはマシンに入れ替えています。でも大脳は残存しています。
「全ての情報が"私"という意識を生み出すが、同時に私をある限界に束縛しつづける」
自身の限界にストレスを感じ、彼女はあえて海中に潜水します。機械に塩水は危険です。あえて自身を死の危険にさらそうという、自己否定の衝動に動かされています。

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つまり両者ともに死にたがっています。「人形使い」はそんな草薙の衝動を嗅ぎ取って接近してきたのかもしれません。

進歩と自己否定は表裏一体

「人形使い」も草薙も、死を望んでいます。それは単なる死ではなく、あらたな生命の誕生を生み出すための死です。
合体した草薙は言います。
「人と成りては童子(わらべ)のことを棄てたり」つまり、「成長したら子供じゃなくなる、人間かわるものだ」という意味です。
自分がまったく変化せずに成長するってことは、ありえません。成長したらかならず過去の自分とおさらばしちゃいます。ということは、進歩とは自己否定と表裏一体なのです。

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そして人間はかならず成長しようとします。生命ですから。最後の戦闘シーンは、博物館の廃墟の中で行われます。壁には生命樹が描かれています。
原初の生命は長い時間をかけて進化し、人間になりました。人間も又なにか別の生命になろうとします。なるためには自己否定をしなければなりません。その自己否定のひとつが、作中では「AIが生みだしたエゴとの一体化」になります。

インドラの網

「華厳経」に「インドラの網」という言葉があります。たくさんの玉があります。網に縫いとめられています。玉は光を反射しますから、玉にはとなりの玉、そのとなりの玉、全ての玉の姿が映ります。別の玉にも、全ての玉の姿が映ります。全ての玉に全ての玉の姿が映ります。

なんだかネット社会を上手く表現していますね。SNSをすこし友人の友人・・とたどれば、すぐにどんな有名人でもたどり着けます。華厳経は3世紀の成立ですが、当時の仏教哲学者はたいしたものですね。そう、押井は基本的に、仏教的な映画を作るのです。

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当時の仏教哲学者は、人間の内面を深く探って探って、最終的に脳まで到達しました。玉を脳細胞に置き換え、光をシナプスの情報伝達に置き換えれば、インドラの網のたとえのすばらしさがわかります。

ただ生命は増殖するものです。玉の数が増えてゆきます。色んな玉が芽生えてゆきます。この映画は基本「インドラの網」を下敷きにしたものですが、そこに時間による発展、変化を加えたところが、単に古い仏教をなぞっただけのものではないところです。

高度情報化によって、インドラの網に、AIという玉が加わったのです。

1995年の高度情報化

この映画が公開された1995年はWindows95が発売されて、人類社会がネットに接続するのが一気に広まった年です。それ以前からインターネットは存在していましたが、Windows95で一気に社会に浸透していったのです。
当然反発が生まれました。いわゆるインテリ、マスコミ、知識人などはたいてい、ネットの発展に否定的でした。いわく伝統的な人間関係が破壊される。又いわく、人格的に破壊された人間が発生する。などなどちょっと日本では否定的な意見が強すぎて、それでIT大国になりそこねたくらいです。

でも肯定的な意見も出ました。代表がこの映画です。

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「人形使い」と草薙が結合する一瞬、ほんの一瞬ですが、天からなにかが降りてきます。天使のように見えます。短く、はかなく、それでいて意味深い映画のクライマックスです。

肯定的ですね。
AIもいわば一種の生命の表現とする考え方です。一種の生命として尊重し、ともに生き、ともに発展しようとする考え方です。

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どちらが正しかったか、明らかですね。だからこの作品は、リメイクされ生き続けるものになったのです。


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