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「三四郎」の広田先生について

周の萇弘

三四郎の

広田先生のフルネームは、広田萇(ちょう)です。へんな漢字です。弟子の与次郎も「草冠がよけいだ」とか言っています。解析当時はなんでこんな変な漢字を使うのか見当がつきませんでした。

ところが前回の九去堂さんのサイト

うろうろしていると、「萇弘(ちょうこう)」という人物を発見しました。

それで検索サイトで調べて見ると(今では中国古典も全てキーワード検索出来るようになっています)

春秋左氏伝にも幾度か登場しますが、「孔子の先生」という意味では、「礼記(らいき)」の「楽記」に記事があります。

賓牟賈侍坐於孔子,
孔子與之言及樂,曰:

「夫《武》之備戒之已久,何也?」對曰:「病不得眾也。」

「詠嘆之,淫液之,何也?」對曰:「恐不逮事也。」

「發揚蹈厲之已蚤,何也?」對曰:「及時事也。」

「武坐致右憲左,何也?」對曰:「非武坐也。」

「聲淫及商,何也?」對曰:「非《武》音也。」

子曰:「若非《武》音,則何音也?」對曰:「有司失其傳也。若非有司失其傳,則武王之志荒矣。」

子曰:「唯!丘之聞諸萇弘,亦若吾子之言是也。」

意味は正直よくわからない。賓牟賈は孔子の弟子で、弟子と会話していると、適切な返答だったので、「萇弘も同じ事を言っていた」と弟子を褒める内容のようです。周の武王の詩についての会話のようです。「淫」という文字があるので、エロ歌に無理やり解釈こじつけようとしているように感じられますが、私の漢文読解力ではわからない。

「礼記」で萇弘の名前を見た昔の人が、「そういえば春秋左氏伝にあった周の政治家だ」と気づいて、孔子は周に留学したのだ、と考えたのでしょう。昔は十三経まるごと頭に入っていた人結構居たようで、凄いですね。十三経とは 易経、書経(尚書)、詩経、周礼、儀礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋穀梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子だそうです。

萇弘の「弘」の字は、日本語の名前では普通「ひろし」と読みますね。つまり萇ひろし、ひっくりかえせば広田萇、かなり確率の高い推論じゃないかと思います。

周王朝末期

周王朝は二期にわかれます。殷をほろぼした西周、やがて弱体化して東に移動した東周。東周がすなわち春秋時代です。既に覇権はなくなっています。しかし形式的には王です。東周が漸次縮小していって、完全に滅亡して戦国時代に入ります。

その周で政治家だった萇弘に、孔子は礼楽を習う。広田先生に三四郎は東京文化を習う。しかし萇弘が滅亡の過程にある周王朝の政治家であったように、広田先生も旧幕を象徴する存在となっています。つまり三四郎は、「孔子」なのですね。乱れきった世の中を、なんとか立て直そうとこれから活動するのだと、思われます。なかなか深い意味合いです。しかし漱石にはクレームきっちりつけなければいけません。こんなのわかるかボケェ。

当時の文壇でも、鴎外と露伴以外はだれもわからなかったのではないでしょうか。だいたい「礼記」なんて誰も読まない経典です。論語から使うなら許します。詩経ならばまだ許容範囲です。孟子も、まあ仕方がないか。春秋左氏伝、尚書となるとマニアの領域です。「礼記」は変態の領域です。

「行人」

おまけです。小説「行人」というタイトルですが、

中国古典では行人は「外交官」です。

論語にも出てきますが、季札も行人、伍子胥も行人、春秋時代のありふれた言葉です。では、小説「行人」の中の外交官とはだれか。私はHだと思っています。Hはおそらく、伊藤博文。外交していてハルピンで暗殺されたわけですから、正しく「行人」です。そのHの隣で、天皇である一郎が眠っている。「行人」のラスト転載します。

「私がこの手紙を書き始めた時、兄さんはぐうぐう寝ていました。この手紙を書き終る今もまたぐうぐう寝ています。私は偶然兄さんの寝ている時に書き出して、偶然兄さんの寝ている時に書き終る私を妙に考えます。兄さんがこの眠から永久覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠から永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします」(終)

一郎は眼が覚めない可能性があるのです。要は死んでいます。

幕末の孝明天皇には暗殺疑惑がありまして、下手人は伊藤博文とされています。本当かどうかわかりません。しかし当時はかなり流布した疑惑です。伊藤を暗殺した安重根が暗殺理由として挙げているくらいです。当然漱石は知っています。こちらもなかなか暗黒小説ですね。漱石は気象が激しすぎて、余裕派の人格者になるにはあと100回くらいの輪廻転生が必要かと思います。

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