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「暗夜行路」解読3・時任と登喜子【志賀直哉】

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謙作の名字は時任(ときとう)です。最初に好きになる芸者は登喜子(ときこ)です。この作品は時間の物語です。

謙作は登喜子と会った後、遊ぶ金のために時計を売ります。次に会った時にタバコ遊びをします。タバコをどこまで根本まで吸えるか、という他愛のないものです。吸ってゆけば短くなります。手が熱くなりますのでいつかは限界が来ます。これが時任と登喜子の時間です。時計の時間はぐるぐる回ります。12時間たつと元に戻ります。タバコの時間は直線です。一方的に減るだけです。謙作はグルグル時間を手放して、直線時間を採用したという意味になります。

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登喜子との関係はすぐ冷めます。合計4回会うのですが、どんどん感情は軽くなります、タバコの残りのように。
謙作はつづけてお加代という芸者と遊びますが、代を加えるのですから時間を延長しているだけです。すぐに行き詰まって仕事も出来なくなります。

そこで尾道にゆくのですが、やはり寂しくなって祖父の妾のお栄と結婚しようと考えます。二十も歳上です。かなり無茶です。尾道から手紙を書きますが、実は本人も確信がありません。うまくゆけばよい気持ちと、うまくゆかなければ良い気持ち半々です。気持ちがどこにも進めなくなっているのです。結果はお栄は拒否、兄の信行は反対、父に至っては激怒します。

といいますのは、謙作は祖父の子ですから、変な言い方ですが父系で考えれば父の弟です。これで祖父の妾のお栄と結婚すると、今度は祖父と義兄弟です。父が謙作のオイ、謙作は父のオジになります。直線時間が行き詰まって退行しようとしているのです。でも焼けて落ちたタバコの灰は、元に戻ることはありません。

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結局尾道で体調を崩し、東京に帰ります。精神的にもだんだんヤバくなります。店で魅力的な舶来時計を見かけますが、以前なら亢進した物欲がさっぱり湧きません。円環時間に戻れないのです。なにをするにもネガティブに考えます。顔見知りの寿司屋の前を素通りしただけで、寿司屋が怒って追いかけてこないかと心配になるくらいです。悪い未来予測しかできません。世界の終末を恐れるキリスト教徒そのまんまです。完全に神経衰弱ですので京都に引っ越して気分転換を図ります。

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京都で直子を見初めます。知人に頼んで縁をつくってもらいます。直子ですから直線的に事態は進展します。事態が円滑に進行している時は直線時間も良さがあるのです。

ループ時間には帰る先がわからない、という問題もあります。伊勢旅行のついでに母の故郷の亀山に立ち寄ります。当時は液晶パネルは生産しておりません、当たり前ですが。母は亀山藩士の家系でしたから、お城に行って聞いてみます。でも聞いた人は母の家を知らないようです。少しさびしい気分ですが、まあいいや、俺が祖先だと思うことにします。

結婚が決まると謙作の妹の妙子がプレゼントをくれます。玉手箱のような小箱でした。嬉しいのですが、過去にループさせる意味もありそうです。

長男が生まれますが病気になります。直子は「時計の音が嫌だ」と言い出します。時計を止めます。そんなことすればよけい悪くなるのに、直線時間直子の悪いところです。案の定長男は悪化して死にます。

謙作が結婚したので、同居していた祖父の妾お栄は天津に渡ると言い出します。親戚のお才と水商売するそうです。本当は反対なのですが、止めきれず許容します。餞別用に時計を買います。登喜子と遊ぶために時計を売って以来です。円環時間は直線時間ほどトントン拍子に上手くゆきません。お栄は大陸で失敗します。でも謙作たちが助けに来てくれます。「それで早く帰ってくれば大難が小難みたようなもんだ」、つまり小さな失敗でよかったと言われます。円環時間は「やり直し」が出来るのです。

謙作は朝鮮で不逞鮮人の話を聞きます。善良な若者でした。政府の開発計画をあてにして借金して土地を買い込んだが、計画が変更、親類全員に大損をかけます。それで日本政府を恨み、犯罪を重ねて死刑になりました。こちらは直線時間の問題点です。未来を決めつけて、あてが外れると人生終わりです。お栄の回収には成功します。贈った時計のおかげでしょう。

朝鮮から帰ってくると、直子がいとこの要と間違いを犯していました。謙作は一気に父親と同じ立場に立たされました。時間がループしたのです。やはり感情的にはなります。しかしここまでの体験で「直線時間はコケると回復不能だが、ループのほうなら回復可能」とわかっています。ですから大山に行って精神修養しようと思い立ちます。

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成長していますのでもはや出立の電車の時刻も気になりません。鷹揚にかまえて旅に出ます。旅の途中で円山応挙の絵を見ます。修行時代の応挙の面倒を見たお寺に、出世した応挙一門が押しかけて絵を書いているのです。時間がループして、別れた人が戻ってきます。大きな実りを持ってです。よし円環時間でやっていこうと思えます。

大山に到着、登る途中で子供を生んだ猫を見ます。猫のくせにえらく遠くから子種をもらってきたようです。また足を折って殺さなきゃいけない馬の話題を聞きます。生と死です。猫が脚力強く、馬が脚力失います。無常です。でも何かが死ねばなにかが生まれます。

そして大山の風景で謙作は「永遠に通ずる路に踏み出したというような事を考えていた」。時任謙作の時間探求の旅はこれで終わります。

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駆けつけた直子はそんな謙作の様子を見て思います。「この人はこのまま、助からないのではないか」、しかし不思議とそれほど悲しくありません。「助かるにしろ、助からぬにしろ、とにかく、自分はこの人を離れず、どこまでもついて行く」。

謙作は時間を超越したのです。直線的退行とは違う、大いなるループ時間をマスターしたのです。死んでも死にませんから直子も悲しくなりません。馬が死んでも猫の子として出現します。個人というのは表面的な存在なのです。生命の本体は馬と子猫のように、永遠にループするものです。直子は謙作の本体さえ見失うことがなければ、永遠に夫婦なのです。

という構成なのですが、説明していてもどうもいまいち迫力がありません。志賀直哉も「時間問題」どう扱ってよいのかわからないまま書いたのが実情だと思います。だいたい視覚的瞬間描写が得意な人間が、時間問題を小説にするのは無理があります。モテない善人の書く「悪の色男講座」と変わりません。でもコツコツ緻密に組み立てそれらしくはなっています。時間問題の下敷きはおそらくゲーテの「ファウスト」です。

志賀は漱石に私淑していました。漱石の「坊っちゃん」は「ファウスト」と日本神話を下敷きにしています。「暗夜行路」は「坊っちゃん」の拡大再生産バージョンと言えそうです。

漱石は「ファウスト」をマネーと性的倫理の問題として見ました。それ以外はわからなかったようです。志賀直哉は「ファウスト」が時間を扱った物語と理解できましたが、それ以上は洞察が深まらなかったようです。

しかし後継作品は生まれました。志賀直哉に私淑していたのが映画監督の小津安二郎です。小津は時任謙作の一時期住んだ尾道を舞台にして、時間を主題にした映画を作りました。

ここまでは割と確実なセンだと思います。以下妄想に近くなります。「東京物語」は世界的に有名な作品になり、「時間物語」の要素をアメリカ人のタランティーノが「パルプ・フィクション」に取り入れました。

「パルプ」にはやや尾篭なネタ含有されておりますが、タランティーノが「暗夜行路」の「下痢・下痢止め・浣腸」ネタを参照したかどうかまでは不明です。「暗夜行路」の英語翻訳出版は1990年、パルプ公開が1994年、一応間に合いますが考えたくなくなったのでここで中止します。


次回に続く。



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