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「草枕」詳細解説【夏目漱石】

前回の記事はこちら

前回のあらすじ解説で書かなかった細かい工夫を解説します。

冒頭

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とにかく人の世は住みにくい。

冒頭はだいたいどの作品でも最も重要です。冒頭に全編の内容が凝縮されている場合が多いです。智と情と意地も、それぞれ人物が当てはめられています。

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画工はイギリス留学の経験あり、英詩も漢詩もひねれます。頭がよい。良すぎて漂泊していると考えられます。角が立ったのでしょう。作中ご隠居の愛蔵品にケチをつけて不機嫌な顔をされます。
那美はオフィーリアに重なります。オフィーリアさんは土左衛門業界最高のヒロインです。私は身を投げると那美本人が言い出します。情が残っているから水に流されるのですね。
野武士すなわち那美の元亭主は経営していた銀行が倒産して、意地を張って大陸浪人になります。おそらく現地で死にます。
しかし「意地を通せば窮屈だ」ってのがさほどうまく行っていない。窮屈さを強調するために列車の監獄性みたいなのを強調して補っています。意地を張ったから窮屈な列車に押し込められる。ううん、文学として上手くはないです。
ですが冒頭を全編に対応させる、という重要な名作ノルマを忠実に実行していますので、やはり漱石は一流の才能です。たまたま上手くいかなかっただけです。物語の冒頭の重要性確認したい場合には、

などご参照ください。

松風

第三章で画工は、昔千葉で宿泊した経験を思い出します。海のそばの宿なのかどうか分からない場所にゆくと、年の違う女性二人が出てきて泊めてくれた。しかし荒れ果てた家で、部屋の中に竹が侵入してきている。来年は筍が床を突き抜くだろうと言うと女性はニヤニヤ笑います。

これと対称になるのが第十二章です。この温泉に以前来たことがあると画工が独白します。「何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ」。おそらく四年程度前なのですが、蜜柑をただでもらって驚きます。

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これだけでは意味不明です。以下解説します。
前者の千葉での宿泊は、能の「松風」が下敷きになっています。

海岸で姉妹の女性といえば、松風・村雨になります。それを導き出すために、第一章で画工が突然の雨、つまり村雨に遭遇します。第二章で駆け込んだ茶屋では婆さんが能役者に見えます。

そして第三章、千葉での宿泊経験を思い出しながら部屋に案内されると、(那美が普段使っている部屋なのですが)伊勢物語が置いてあります。伊勢物語の主人公は在原業平、そして「松風」で女達が再訪を待っている男性は在原行平、つまり業平の兄なのです。読者に「松風」を導き出させるために、漱石は伊勢物語を部屋に置いているのです。

面倒ですね。こんな工夫は私のような解析変態でないとわかりません。つまり小説の工夫としては失敗ということです。
松風・村雨の姉妹は行平の再訪を待ちわびます。うら寂しい気持ちです。それは亭主と別れて苦しんでいる那美さんです。
後半で画工は、蜜柑をタダでくれた地元の人を思い出します。無償の善意です。明るい気分になります。そんな画工の気分の好転が影響して、(前回書いたように)那美さんも蜜柑畑を静かな気持ちで見下ろします。画工につられて那美さんの気持ちもネガティブさを払拭できたのです。
先ほど失敗と言いましたが、ここの蜜柑畑は実際良いシーンです。鴎外の「阿部一族」のトンボのシーンのような静けさを上手く書けています。

(追記・昔タダで蜜柑をもらった記憶のある、その蜜柑の畑を那美さんと見下ろします。「女は音のう景色もない」と書かれます。蜜柑で所有権主張しない、音のうという言葉を使う、となるとここは、徒然草「栗栖野といふ所を過ぎて」のオマージュですね。第三章と第十二章、古典同士で対にしているのですね)

刃物

第五章で画工は下手な床屋に行きます。カミソリ使いが荒く、痛くて困ります。床屋は江戸っ子です。那美さんの悪口を言います。

第十章で画工は池の畔にゆきます。峠の茶屋で出会った馬子の源さんに再会します。源さんはナタを持っています。刃物が対になっていますね。源さんも那美さんの悪口、というか一族の悪口を言います。代々精神異常が出る。死んだ母親も晩年異常だった、うんぬん。

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ただ後半のほうは、個人の悪口というより家全体への悪口ですので、パブリックな性格になっています。本作後半は公的問題の比率が高まります。そして源さんは最終章、久一見送りに同行します。馬子なのですがほぼ使用人の地位です。それが家の悪口を言う。那美の家はうっすらとですが、憎まれているのですね。

この刃物の対句が見えると、「到着の謎」がわかります。

悪意

「到着の謎」というべき問題が本作にはあります。
1,峠の茶屋の婆さんによると、茶屋から温泉まで二十八丁、2.8キロ。婆さんの教えてくれた近道で六丁短縮、二十二丁、2.2キロ。山道でも1時間程度で到着のはず。
2、作中茶屋を出たのは日中。夕方にはなっていない。しかし宿への到着は夜8時。
3、一番遅く夕方6時に茶屋を出立と考えても、1時間程度ロスをしている。常識的に考えれば数時間ロスをしている。謎です。

ところで、先立つ第一章で画工は路で足を踏み外しています。たまたま腰が落ちたところ岩に座る格好になったので無事でした。その時に見上げたのが天狗岩でした。

その岩が天狗岩と茶屋の婆さんに教わります。婆さんは那美さんを知っていて心配しています。そして画工に近道を教えます。
「六丁ほどの近道になります。路はわるいが、お若い方にはそのほうがよろしかろ」

これは婆さんの画工にたいする薄い悪意なんですね。画工が那美さんの話題に乗ったものだから、元々那美さんに薄く悪意を持つ婆さんが、意地悪をして悪路を勧めたのです。村雨の直後ですから悪路ではどうしても滑る。先程雨が降っていないのに足を踏み外した画工ですと、数回滑り、更には路に迷い、大変難儀したはずです。それで宿の到着に時間がかかった。

後に画工は婆さんの話を那美から聞きます。「あれはもと私のうちへ奉公したもので」と言います。なんか上から目線です。だから婆さんは実は那美を、薄くですが憎んでいるのです。

威圧

第二章で馬子の源さんは馬をしかりつけます。雨のしずくがかかって馬が首を振っただけです。偉そうでちょっと嫌な感じです。

対応するのは第十三章、川船の中です。源さん同乗の船の上で、那美の父が癖で弓を引くポーズを取ります。那美の父は士族なのです。武道ができます。ですから面と向かっては皆逆らいません。でも士族なんぞ明治40年には尊敬を失っています。その家の人間だから、那美さんも偉そうですし、みんな薄くですが憎んでいます。

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つまり「草枕」の下敷きには、階級問題があるのです。那美さんを悪く言う床屋も源さんも下級です。するとどうしても悪口になる。次の作品「二百十日」ではその相違する階級の人々をなんとか一体化できないか試みています。

本作の、「智に働けば」にせよ、「松風」「刃物」にせよ、凝りすぎて誰もわからない工夫の典型例ですね。思いつきは悪くないのですが、練り上げが足りていない感じです。では無意味だったか。これだけ色々仕込んだのだから、その力で「天狗岩」の回帰で万感が迫る感じがあるとも言えると思います。無意味ではなかったと思います。

対句は他にも大量にありまして、第五章の落ちる牡蠣殻と第十章の落ちる椿、第三章の赤い帯の小女と第十二章の赤い腰巻きの娘、第三章の家の中の迷路と第十二章の蜜柑畑の迷路などです。
ここらへんの対句、だいたい第一章に出てくる要素を展開しています。

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第一章だけが独立、あとは鏡像(対称)になっていますが、鏡像部分の対句は独立した第一章に元ネタを仕込んである。素晴らしい構成能力ですね。漱石の「枕」部分の上手さは、以下ご参照ください。

というわけで、なんのかんので冒頭にポイントを集中できるのですから、確かに文豪です。

ほか解析したことです。花鳥風月を求める旅ですから、鳥と花が頻出します。しかし対称性はあまりないようです。調べましたが無駄でした。時間と手間の損です。

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しかし密度の高い作品はこういう無駄するくらいでないと読解は無理です。漱石の評論いくつも目を通しましたが、全員夏目漱石の能力を過小評価しています。だから浅く読んで半端な理解で終わりにして平気な顔して評論書いていますね、いやはや。
逆に言えば、過去の評論は全て内容を読めていませんから、今の漱石研究者の前には巨大な未開拓地が広がっております。漱石に限らず過去の文学の名作の大半はその状況だと思います。


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