送る支度

先日、父方の祖父が亡くなった。遠方に住んでいたのでそう頻繁に会っていたわけではなかったけれど、たまに顔を見せたらかわいいかわいいと甘やかしてくれる優しい祖父だった。享年91歳、明日にも危ないと言われてから2ヶ月も長く生きてくれて、そう言われてから2回会いにいくことができた。そのときも変わらずかわいくて美人で賢くていい子だね、とわたしのことを褒めてくれて、最後にした握手は痩せ細った身体のわりに力強かったのに、小康状態だと言われた翌日呆気なく逝ってしまった。

正直言っていつ亡くなってもおかしくないという覚悟はできていたし、91歳ともなると周りの人も多くが他界している。もしかしたらほんとうに "死は安らぎ" なのかもしれないと、昨年エリザベートに通った頭はぼんやりと考える。悲しみでは泣けない性質なので、涙は出なかった。悲しみ自体そこまで強いものだったのかも分からない。ただ親から来た訃報のLINEを見ながら、わたしのことを無条件で褒めてくれる人が一人減ってしまったなあ、と思った。去年買った喪服の出番が来てしまったなあ、とも思った。

秋冬ものの喪服を買ったのは昨年の秋頃だった。祖父がもうあまり長くないだろうと知った頃に、まるで亡くなる準備をしているみたいだなと思いながら渋々買いに行ったのだった。最近仕事関係で葬儀に出ることも増えているし、と自分に言い訳をしたが、きっかけが祖父の体調であることは動かしようのない事実だ。気が進まないと思いながら売り場に行って、いくつかサイズを見繕ってもらって試着室に入った。嫌だ嫌だ、と心で唱えながら、それでも鏡を見る自分の顔に少しだけ「新しい服を買うとき」の表情が浮かんでいてますます嫌気がさす。人が死んだときに着る服を買うときさえ、鏡の中に最高の自分を作ろうとしてしまうのか、わたしは。

谷和野さんの短篇集『いちばんいいスカート』の中の一篇、『みづくろい』で、大好きだったおばあちゃんのお葬式に出るための喪服に対して主人公はこう言う。

私 バカだから そこそこ値がして頑丈にできてて形がきれいだと "私は今よいものを着ている" って高揚感が生まれちゃうの 今日は私の中で少しでもそういう気持ちを起こしたくなかったの

わたしはこの主人公ほどおじいちゃん子というわけでは全然ないが、気持ちはとても分かるなと思う。"私は今よいものを着ている" という高揚感は、要するに "そんなよいものを着て素敵になっている自分" への高揚感だ。試着なんかするんじゃなかった、ネットで安いものを買ってそのままクローゼットに吊るしておくんだった、そう思った。試着なんてしてしまうから、この襟の開きは似合わないとかもう少しラインがまっすぐな方がとか、見た目をよくすることを考えてしまう。わたしは薄情な人間だ。

ただ、それでも、と思う。わたしのことをかわいくて美人だと褒めてくれた祖父を送るのにできるだけかわいくて美人な自分であろうとするのは、非難されるべきことなのだろうか?「場に合う」ことはもちろん大事だが、わたしはできるだけおじいちゃんが褒めてくれた自分で見送りたいと、そうも思うのだ。

葬儀の当日、試着して買った喪服はきれいな緩い曲線を描いて、痩せぎすの身体を覆ってくれた。マナーサイトを参考に、チークもアイメイクもしないで仕上げた顔は黒に負けてとてもやつれて見えた。やっぱりこんな顔で見送りたくないな。そう思って、いつも使っているチークを入れ、パールが控えめなベージュのアイシャドウにブラウンでアイラインを引き、マスカラを塗った。パールのネックレスとピアスも着けて、ようやく大切な家族を見送る準備が整ったと思った。間に合わせで買ったベージュのリップだけは沈んで見えたけれど、ここは場に合わせる部分として落としどころを付けたつもりだ。

喪服を着るのは嫌だし、その出番を待つようなことはしたくない。でも着なければならないのなら、できるだけきれいにしたいと思う。それがわたしにとって、祖父を送るための精一杯の準備だった。

おじいちゃん、今までありがとうございました。これまで辛いことや凹むことがあってもおじいちゃんが褒めてくれたことが自信になっていたし、これからも大切に抱えて生きていくよ。棺に向かって心の中で語りかけながら、短い式を終えた。これからは自分で自分を褒めなくてはならない。とりあえず帰宅して、鏡の自分に「今日もかわいいね」と語りかけてみる。頭の中でおじいちゃんの声が聞こえた気がした。

#日記 #コラム

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