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銀河鉄道の夜、構想100周年!?

宮沢賢治の名作、銀河鉄道の夜。

この作品に関わる、重大な出来事から、今年で100周年を迎える。

それが……

「宮沢賢治と保阪嘉内、出会って100年」

である。

1916年(大正5年)4月、盛岡高等農林学校に進学した保阪嘉内と、1学年上の宮沢賢治が同室となり、そこから銀河鉄道の夜をはじめとする、宮沢賢治の創作活動が始まっていったのである。

保阪嘉内は1浪のすえ進学、宮沢賢治は現役合格で、もともと同い年、というのもあってか、すぐに意気投合したという。

翌年には、2人を中心に河本義行氏、小菅健吉氏と4名で同人誌「アザリア」が創刊されているから、来年は「アザリア創刊100周年」でネタにしようと思っているのだけれども。

宮沢賢治が執筆活動を開始するきっかけは、明らかにこの「アザリア」だったわけだし……
そして、保阪嘉内はそれ以前、幼少期よりスケッチや詩に取り組んでいたことでも知られている。
つまり、この時期の宮沢賢治の執筆活動にとって、保阪嘉内が大きな影響を及ぼしている事は明らか、なのである。

銀河鉄道の夜の登場人物、ジョバンニ=宮沢賢治、カンパネルラ=保阪嘉内という説もあったりするのだけれども。

そして、「天の川の中を列車がゆく」という発想自体も、もともと「保阪嘉内が発想したもの」なのである。

その証拠となるのが……

このスケッチのホンモノは、昨年岩手県美術館で展示されたりしていたようなのですが。
看板は韮崎市の「銀河鉄道展望公園」にあります。

「銀漢を行く彗星は夜行列車の様に似て遥か虚空に消えにけり」

「天の川を行くハレー彗星は夜行列車のようで、そのまま空に消えていった」

そう、天の川をゆく夜行列車、という発想は「保阪嘉内が宮沢賢治に提示したもの」だったのです。

100年前、同部屋となった宮沢賢治と保阪嘉内、この思い出話に至るまで、それほど長い時間はかからなかったでしょう。

つまり、今年は「宮沢賢治が『天の川を行く列車の話』を初めて耳にしてから100周年」でもあるのです。

ある意味「銀河鉄道100周年」とも言える今年。
ぜひ、天の川を見上げて、あと、山梨にお越しいただければ幸せである。

そのさい、ご一報いただけたら、何か楽しいことが始まるかも知れない。

※一応いつもの投げ銭記事です。
この下に内容はないよう

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