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イヌの話

〜忠犬ハチ公〜

『忠犬ハチ公』のビデオを観た。この映画、観るのは2回目だが、何度観ても最後のシーンには泣かされる。時代が違うとはいえ、飼い犬を見捨てて行くなよ、と思ってしまう。

忠犬ハチ公を見て、僕が幼い頃に家で飼っていた犬を思い出した。やはり、秋田犬で、名前も「ハチ」だ。多分、本家のハチ公から拝借した名前なんだろう。

僕の家族は特に動物が好きというわけではなかった。僕も大して興味を持つでもなく、淡々と接していた。そもそも昭和30年代ってのは、人間さまでさえまだ余裕がないような時代だったから、「ペット」なんていう発想は一部の動物愛好家の間だけの話だ。犬を飼う目的は「番犬」が主だった。

そんな秋田犬だが、これが手がつけられない暴れものだった。外来者だけではなく、時には家族にさえ吠えつくこともあり、もともと動物が好きではない母など、決してハチには近づかなかったもんだ。お陰で、彼のあだ名は「馬鹿っパチ」となってしまったのだ。

当時は犬だけが一人(?)で散歩をすることはよくあった。田舎だったからかな…?しかし、そんなハチだから、一人散歩はさせられないし、僕は自分の遊びが忙しいから、ハチの面倒などみるわけがない。連れて行く者もいなかったので彼の散歩はなし。だから、なおさら、ストレスが溜まっていたんだろう。

そんなある日、事件は起きた。夜のことだったが、もう一頭飼っていた老犬と喧嘩になり、その時の傷が原因(もと)で、その老犬は死んでしまったのだ。大人しい犬だったので、家族は皆、老犬の死を哀れみ、ハチはすっかり悪者になってしまったのだ。その事件がきっかけで、家で持て余されたハチは、父の知り合いの家に貰われていったのだ。

僕も含め、薄情な家族はハチのことなどすっかり忘れて、別の犬を飼うことになった。こちらも特に可愛がることはなかったが…。

そんな頃だった。父が急逝したのだ。突然の死は、家族にとって大きな衝撃だった。子供たちの前だからだろう、母は気丈に振る舞い、その横で姉たちが泣きじゃくっていたのを今でも鮮明に覚えている。幼かった僕は父の死を実感として受け止められず、割と冷静(というか現状認識能力の欠如)だったと思う。

その父の葬式の日のこと。思い出すと、いまだに不思議な気持ちにさせられる出来事があった。

お坊さんの読経の合間に、ふと庭の片隅を見ると、貰われていったハチが、父の遺影に向かってちょこんと座っていたのだ。

「何でハチがここにいるんだ?」

貰われていった先は、実家から4キロほど離れた所なので、歩いて来ることは可能だが、「父の死」、「家までの道のり」を、どうやって知ったんだろう、という素朴な疑問が生じた。

そのハチは葬式が終わるころ、出棺中の人の動きに紛れて、いつの間にか姿が見えなくなっていた。後日聞いた話では、引取り先の知人が家に帰ってみると、ハチはちゃんと戻っていたらしい。

今、思い起こしてみても、あの映画の話のように、父がハチを格別可愛がっていたという記憶はない。むしろ家にいる時間が少なかった分、ハチとは一番疎遠だったんではないかな。そんな父の死を察知し葬儀にまで参列するほどの忠犬心は何だったんだろう、と不思議に思う。

そのハチだが、葬儀の後しばらくして、知人の家を脱走して行方をくらましてしまったそうだ。なので、その後ハチがどうなったのか、まったく分からない。以前、妻にこの話をしたとき、動物好きな彼女から、

「愛情を注げないのなら生き物を飼ってはいけない」

と大いに非難されたもんだ。まったく、その通りだと思うが、ハチを飼おうと言ったのは僕ではない。

今、我が家では犬を一匹飼っている。同居して10年になる。常に身近にいるその犬を見ていて、当時、実家で飼われていた犬たちの気持ちに、いかに僕が無頓着であったか、ということに初めて気づいた。

ずいぶんの時を隔てて、庭の片隅で座っていたハチを思い出し、今さらながらだが、心が痛んだ。



〜イヌの目〜

島 泰三氏の『ヒト、犬に会う』という本を読んだ。

その中で特に興味を引かれた部分がある。「犬とヒトとのコミュニケーション」を語っている部分だ。

野生動物の持つ能力には遥かに及ばないヒトは、犬が持つ野生の能力をコントロールすることにより弱点を克服した、とある。そのためには犬とのコミュニケーションが成立しなければならないが、犬には、音や臭いに対する敏感な受容能力と瞬間的な動きを解析できる能力があるという。その能力によって、人間の些細な動きなどから、人間が伝えたい情報を探りあてられるというのだ。これが犬の読心力(=繊細なコミュニケーション能力により主人の意図を理解すること)であると説いている。この「伝達されるべき情報を察知する能力」は、余計なものを排除して「今、目の前にあるもの」を厳密に捉える判断の客観性につながるのだ。

対して、人間の判断能力はというと、「知性的判断能力」が基準であると信じられているが、どうやらそうでもなさそうだ。人間は、その能力を超えるあまりにも多岐にわたる情報を適切に処理しきれず、バイアスがかかった観点からしか事柄を判断できない、とある。

確かにそう思う。人は「学歴や肩書き」やら「出自」やら、何やらかにやら、判断の基とする材料に振り回されている。それを「知性的判断材料」とするならば、相互の関連性を欠く過多な情報で継ぎ合わされた結果の判断には、その客観性に疑問が湧いてくる。

「ヒトという霊長類の末裔は、その巨大化した脳の使い方を誤り、常に妄想と幻に怯えながら生きなくてはならなくなった」、「それを正すのは、イヌの客観性への確信だ」。

「妄想に縛られるヒト」と「妄想と無縁の犬」の対比の中での一節だ。犬は「仕草、物言い、臭い」の全体で客観的に判断する能力を持つが、ヒトは「第一印象」という「幻想」が基準となっている、というのだ。  

そう捉えると、我が家にいた「忠犬ハチ公」の行動や、人間社会が織りなす人間模様のややこしさの基が見える気がする。

さらに、「人間が抱く妄想」というものから、ユヴァル・ハラリ氏の『サピエンス全史』で説かれたホモ・サピエンスの「認知革命=フィクションを信じる力」が連想された。屈強な肉体を持ち知能的にも互角だったネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスが生き残ったのは、フィクションで結びついた集団性だ、というのだ。この「フィクションを信じる力」の延長線上に「妄想」があるのかな、と、ふと思ったのだ。  

この「妄想に繋がるフィクション」ってのが曲者だ。フィクション→妄想で形づけられた結果がステレオ・タイプ的観点になり、そこから様々な差別(/区別)意識が生まれていると感じることがある。セクショナリズムもここから始まっている。

異文化理解も然りで、その問題に関連する書物や考察は多々あるけれど、その「枠組みで観る」ことに固執すると、客観性を欠いた妄想となり、観る目を歪ませる。そのような観点は理解の土台にはなるが、そこから先は、「素で見て感じたこと」を疑問解決のヒントにすべきだと、自分の体験から思う。

話が逸れたが、「犬の目」で物事を捉えれば、今ある人間社会のややこしさも解消するのでは、と思ったりもする。文明的発展はないかもしれないけど…。

西岸良平氏の漫画『夕焼けの詩』に、こんな一コマがある。

「犬の目は悲しいんだ。なぜなら…」、
「人や猫は大人になると、子供の頃の純粋な眼差しがなくなってしまう。でも犬は大人になっても、子犬の頃の純真な目から変わらないんだ。飼い主を信じきっているから」。

確かにそうだ。今、飼っている犬も今年で11歳の、人間なら高齢者に相当する年齢域だが、その目はいつまでも子犬の頃のままだ。じっと見つめる目を見ていると、全てを理解し受容しているような、哲学者の趣がある(言い過ぎか?)。

たかが犬の目、と言うなかれ。人間が持ち得ない能力を秘めた彼らの目の奥深さから教わることは多い。




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