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『マウント』が足りない。

二十歳の頃、出会ったあの子にマウントを取られていたんだなと今更気づいた。
あの頃はマウントなんて言葉が存在しなかったから、ただ自慢っぽくて人を自然と見下す女の子なんだなと思っただけだったけど。

二十歳の頃、ゆるく音楽活動をしていた。
そんな中、高校生の頃から続けていたのがボイトレ。
オーディション雑誌で受かった駒込にあるボイトレに通っていた。
横浜から駒込は正直遠かった。でも自称業界人と言うミュージシャンの先生の元で何かしら得るものがあると思っていた。

その当時、同じバイト先の同い年の女の子と仲良くなった。
その子もプロのミュージシャンを目指していた。要は彼女と私はライバルだった。

バイトの休憩時間にはお互いの音楽の近況を話したりした時のこと
「なんで駒込までボイトレ行ってるの?すっごい可哀想〜!!私は近所のボイトレ通ってるよ。そんな遠くまでボイトレ通ってるなんて本当に可哀想〜!!」

それまで自分が可哀想な人だなんて思ったことがなかったので衝撃的だった。
私が好きで通っているボーカルスクール。遠いけど価値を感じてるボーカルスクール。それに対してのまるで私がそこのボイトレに行かされていて可哀想と言う流れ。

とっさにそんな気持ちではないことを伝えた。
「あ、でもね、そこのボイトレはね・・・」
私の話に彼女が新しい会話をかぶせてくる。
「そうそう、あのね、今度ライブ観に来てよ〜。」
彼女は彼氏と始めたバンドの話を楽しそうにし出した。
もう私の話のターンは終わっていたのだ。
彼女には私が可哀想ではないことが伝わらなかった。

そこから何かとつけて彼女の私に対するマウントをとる姿勢に違和感を覚えるようになり私から距離を置くようになった。
自分の話ばかりする人で、他人に興味がない人なんだなと発覚した。
彼女と最初で最後に撮ったプリクラは、彼女ががっつりフレームの中心で笑ってピースしていて、私の顔が見切れてるプリクラだった。 

そしてここ最近でもマウントを取る人を見ると、この人は他人に興味がないんだろうなと思うようになった。聞いてもいない自己アピール。いつだって自分が中心。
自分がこれだけ凄いってアピールは100歩譲って許そう。
本当に凄いかもしれないし。
でも、そこから他人に同情するような言い方をする人を見ると衝撃を覚える。
それが私が二十歳のころに言われた「可哀想。」と同じ感覚。
こちとら全然幸せだし、可哀想の意識がないのだ。
あなたの物差しで他人を可哀想と判断するなと思ってしまう。

そんなマウント合戦を見るときに、私はこう思うようにしている。
年上がマウントを取っている場合は親戚の叔父さんか叔母さんが自慢話をしている。
年下がマウントを取っている場合は甥っ子か姪っ子が自慢話をしている。
そう思うだけで、とてつもなくどうでも良くなるのだ。
なんだかムダに少しだけ優しくなれるし、彼らに見えないマウントを自分が密かに取っている感覚を持てる。
相手には伝わらなくていい。伝えると結局、マウントをまた取ってくるから。

なので、身近にマウントを取ってきて苛立っているときは
微妙に血が繋がっている家系の人だと思うことを薦める。

そんな自分も無意識に誰かにマウントを取っているかもしれない。
私にはマウントが足りないなと思いながらも、無意識に取ってるのがマウントというもの。

どうか身近な方へ、私にマウントを取られてると思った場合は
親戚の叔母さんだと思ってください。

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