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笛あおい。が笛あおい。になるまで。

広島県呉市生まれ、廿日市市出身&在住の笛あおい。と申します。

バッジを見ていると、記事をプロフィールとして設定出来るようなので、書いてみます。時々更新するかも。ま、履歴書みたいなモノなので、興味のある方でどうぞ。

1976年生まれで、PC歴は7歳からという英才教育のもと、エンジニアになるのは自明ともいえるスタートなのですが、かなりの紆余曲折もアリました。

スタートはNEC PC-8001Mk2です。フロッピーも5inch2D、テープも記録装置として使っていました。最初は、まぁベーシックを叩いてみたり、ゲームをしてみたりでした。親父が知り合いから貰ってきたモノを面白がって使ってみたのが最初でした。

すぐに、8001では物足りなくなり、親父のPC-9801Eに手を出しました。どうせ親父は夜遅くまで帰ってこないんだし、昼間使うのは全然OKでした。その頃から、平日は私・休日は親父の使い分けがなされていたように思います。でも、小学生のうちは正直ファミコンが面白かったように思います。

そして中学生。世の中は32ビットだぜ!ということで、PC-9801DAがウチにやってきます。ココら辺が分水嶺で、私はスーファミを持っていない子でした。Cからアセンブラ、コピープロテクト破り、そして今でも書く場所があれば必ず書くのが、「ATOKを常駐したままプリンセスメーカーが動くコンフィグを作る」です。8086とMS-DOSの厳しい制限、386ならではのメモリ使いなど、相当やり込みました。方眼紙にメモリーマップを手で書いてたのも、良き思い出。この辺が大学へ行くまで続きます。

この頃のトピックとしては、呉高専ですかねぇ。オープンキャンパスで音響カプラを使わせてもらって、感動したあまり受験&不合格。まぁ学校の勉強は興味のあるものしかしないダメ生徒だったので仕方ないかも。致し方なく地元のというか、学区内の高校へ進学。気が抜けたのか、無気力無関心無感動な生徒だったかもしれません。でも、生徒総会の議長とかして、冬コート自由化を学校からもぎ取ったりしてたので、そうでもないかも。あと、あれだな某ディスクマガジンにドット絵とか、テクニカル記事なんかを書いて送ったりもしてました。投稿型で採用されれば採用のディスクマガジンが送られてくる形式でした。買いに行ったりする交通費まで考えると、随分オトクだったので、毎回なんらかの記事を送っていたように思います。なのでATOKを常駐させてないとヤだったのです。あと、アレですかねぇ、呉高専受けてたくらいなので、最初は理系志望だったんですけど、比較的早い段階で文転してます。で、その後2年生の終わり頃かな、3年生になると文理選択があるのですが、まさかの理系選択。しかも物理。担任とオフクロの度肝を抜いたのか、説得もされました。担任は社会科の先生だったのと、オフクロは理系嫌いなので、しょうがないかも。でも、理系でしたねぇ。この頃から明確に科学者になりたいと思っていました。いい響きじゃないですか。科学者。

で、大学生。とある地方国大の理学部物理学科へ進学。理系は国立に限ります。私立に行くと文字通り親が泣きます。インターネットが出始めたこともあって、PCは何かを生み出す魔法の箱から、ネットのビューワになりさがり、18歳未満お断りのゲームとネット。今となってはタブレット並みのことしかしなくなったのですが、まぁソコソコ勉強も忙しかったからねぇ。え?大学は勉強しに行くところですよ?

そんなこんなで、院生時代。PCは完全に道具でしたねぇ。論文を探すのもPC。でも読むのは紙かな、メモも取れるし。今なら絶対にiPadとApple Pencilでしょうねぇ。書くのはPC。LaTexとかで書きます。数式がきれいに出るのと、式番号の管理が自動なのと、LaTexならソースコードを送れば、論文投稿出来たので、か細いネットでテキストで送れるのは大きかったのです。日本語なんて使わないので、US-ASCIIでいいし。まして、解析はPC絶対必須です。Pen2からPen3くらいのPCだとそこそこ力技で解析プログラムぶん回しても、実用のスピードでつかえました。解析プログラムは自作なのはしょうがないかなぁ。物理の実験をして、論文を読み書きし、プログラムまで書く。もちろん、英語を話し、英語で読み、英語で書く。だんだん英語で考えるようになり、日本語がルー大柴になっていたとオフクロが言います。致し方なしですね。アーク溶接や旋盤も回します。この頃、23~25歳くらいの私は、最高に有能でしたので、今でもライバルは?と聞かれると、「24歳の私」と答えます。もう追いつくことはない終生のライバルです。

しかし、そんな生活も終りを迎えます。過重労働がたたったのか、猛吹雪の中で倒れる。3日間39度の熱にうなされやっと一度だけ大学へ行き装置を動かして帰れば今度は40度の熱にうなることも出来ない4日間。まぁ起き上がれないですね。水しか飲んでなかったし。そしてその後大学へやっと顔を出したら先生に、1週間も休むなら前もって言ってもらわないと!と言われ(先生は状況を知っていました。連絡くらいはするからね)、心が折れました。心って折れる時に音がします。できるなら聞かないほうがいい音です。そこから1年以上不登校です。26歳にもなって不登校。ずっとラグナロクオンラインをしてました。寝て起きてROして、ビール飲んで寝る。そんな生活でしたので30kg太りました。1年位で。。。

そして就職。個人的にはもう余生なんですが。。まぁ27歳の未経験者を拾ってくれる奇特な会社が、今勤めている会社でもあります。広島で末永く働いて、ご飯が食べられれば何でも良かったんですが。時間外はキライ、趣味の時間が大事、資格は最低限しか取らない、ホント昔ながらの勤め人にはいけ好かないであろう、そんな社会人生活でしたが、不思議と困った事があると呼ばれてました。「わからないことをわかるようにする程度の能力」は、若い頃に特殊訓練をつんでますからね。ホント迷惑な話です。だもんで、9ヶ月~1年程度で分野も、内容も、当然部署も違う場所を転々としてました。コレが今社内で、マルチロール&オールラウンダーとして何でも出来るをウリにしているゆえんでもあります。でも、ツライよ。ずっと同じ仕事してた方がいいに決まってる。ラクよ、そのほうが。

そんな人間を受け入れない、スペシャリスト志向の、ロジカル上司に恵まれ、順調に心を壊し病気休暇。復帰しても、区分がついてるので仕事量が制限されているのもあり、干され上げられました。そのまた上の上司に、「やってらんない」と言ったので、島根に飛ばされました。なんか、イキの良い若手を島根から引っ張るのに人身御供として売られたのです。ドナドナです。。ロジックって人に使っちゃだめですよ。大事なのは義理と人情と人当たりです。ロジックは、ホントに人を撃滅して追い詰めて殺します。今思えば、生きてるのが不思議なくらいです。理系中の理系、物理科を出てるくせに、ロジックではなく勘とヒラメキで状況を解決し、義理と人情と人当たりで仕事を取ってくる私を気に入らないアイツ。このへんは相容れないのかねぇ。それとも同族嫌悪??自分より理系なのに、自分の理想とする理系像からかけ離れてた私をホントにキライだったんでしょうねぇ。「理系理系って言うけど、理系度では私のほうが上よ?なにも知らないくせに自然科学をナめるなよ!」って言ったこともあります。そんな私です。気が短いのはホント直さないといけません。でも、ホントに相手を撃滅して殺す気になれば、おそらく手のつけられないほどロジックを展開するかもしれない。まぁしないですが。20世紀の科学は、自らを不確定で不完全であるとしました。でも、そこから新しい分野が開けたのです。パーフェクトでミーシーなロジックが全てではありません。自然科学をやった人ほど、こんなロジックになじまないのではないでしょうか。神様だってサイコロ振るもんね!エンリコ・フェルミも、つまんなそうに授業聞いてる生徒のために、ピアノの調律師とか面白話をしたら、まさかフェルミ推定とか名前がつくとはと思ったのかも。本人はどう思っていたんでしょうかねぇ。

・・・そんなボロボロの私を島根の人は暖かく受け入れてくれました。そんな中、少しずつ療養しながらの仕事ぶりでしたが、職場が5年で平均年齢が51歳から38歳まで若返る中、若手の育成で評価されたので、広島へ戻ってきたわけです。そりゃあ、大学のセンセイになる勉強をしてたわけですから、大人にモノを教えるのは一日の長があります。逆に、若手に馬力を上げて動いてもらい、私はディレクションとジャッジメントに集中する。そんな棲み分けも良かったのかもしれません。順調に回復し、病気の区分が取れると早い段階でランクが上がったので、島根にいた5年は良かった。と、言えるでしょう。

そんな、NWサーバ音声セキュリティ何でも来い、なんなら育成もしちゃうよ!「24歳の私」に比べたら、今の私は取るに足らない程度の人間です。なんでも教えます。隠し持つことは無いですねぇ。だって教えたらやってくれるんだもん。楽をするには教えるに限ります。「やってみせ、いってきかせて、させてみせ、ほめてやらねば、ひとはうごかじ。」連合艦隊司令長官 山本五十六ですねぇ。

でも、明日は床下配線の夜間作業。う~ん、まぁいいか。それもオールラウンドです。そんな事を考えながら、笛あおい。は生きています。

なんか、重いプロフィールだったかもしれませんが、酒とマンガとゲームをこよなく愛し、今はAIでカワイイ女の子を生成するのが楽しい。そんな笛あおい。をよろしくお願いします。

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